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2013.06.24 研究論文「ユダヤ人と歴史の中のイエス・キリスト」 投稿者:岸野みさを

The Best of Bach
 
ユダヤ人と歴史の中のイエス・キリスト 

岸野 みさを  

 預言者イザヤは「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルととなえられるであろう」(イザヤ9:6)「彼はダビデの位に座してとこしえに公平と正義をもって国を治める」(9:7)と告げました。主の降誕を記録したマタイは冒頭でイエス・キリストの系図を示して、この予言が成就したことを宣言し、インマヌエルとは「神われらと共にいます」という意味である、と記しています。

イザヤの時代の契約の民イスラエルの偶像礼拝と不従順ははなはだしく「悪をよんで善といい、善をよんで悪という」(イザヤ5:20)とイザヤに糾弾されました。預言者が何が善で何が悪であるかを明らかにした時はそれにどこまでも従うことにより、個人も国家も守られるという原則をないがしろにしたのです。

 その結果「ああ、アッスリヤはわが怒りの杖、わが憤りのむちだ」(イザヤ10:5)と主はいわれて紀元前721年イスラエル北王国はアッスリヤに滅ぼされ民はメデイヤの町々に連行されます。その本体は北方に進み、やがて歴史上から姿を消して、失われた10支族となりました。(列王下17:6)

 イスラエル南王国も紀元前586年にバビロニア帝国に滅ぼされバビロン捕囚が始まりました。(列王下25章)「モルモン書」によれば、その直前、危機一発の紀元前600年にリーハイとその家族は主の導きによりエルサレムを脱出して約束の地アメリカに導かれました。

 南王国の王だったゼデキヤの息子たちはミュレクを除いて皆殺しにされ、(列王下25:7)主はミュレクを約束の地アメリカに導き、やがてミュレクの民とニーファイ(リーハイの息子)の民はゼラヘムラの地で一つの民となりました。(モーサヤ25:13)

バビロン捕囚にあってはダニエルやその友人たちシャデラク、メシャク、アベデネゴの(ダニエル1章)高貴な霊は他国にあっても、その国の重要な地位につき、ペルシャの王妃に選ばれたエステルはユダヤ人絶滅計画から民族を救いました。(エステル5章―9章)エステルという名前はペルシャ語で星という意味です。その名にふさわしい女性でした。

 バビロン捕囚にあってイスラエルの民は、詩篇137章で「われらはバビロンの川のほとりにすわりシオンを思い出して涙を流した」と始まり要約すると、とりこにした者がシオンの歌を歌えと言うのですが、外国にあってどうしてシオンの歌を歌えようか、もしエルサレムを忘れるならば琴を弾いている右の手が動かなくなってもよいしエルサレムを最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつけてください。つまりおしになってもよい、と悲しみました。

バビロン捕囚70年後(エレミヤ25:11)ペルシャ王クロスによって解放されたユダヤ人は荒れ果てた祖国に戻りエルサレムの城壁を修復し神殿を再建します。預言者ハガイは告げました。「万軍の主はこう言われる。今一度、私は天と地と海とかわいた地とを震う。万国民を震う。私は栄光をこの家に満たす」(ハガイ2:6-7)と、こうして救い主の降誕はアダムの時代から聖なる預言者たちの口を通して繰り返し宣言されてきました。

 そしてついにイザヤの予言から700年後、紀元前1年4月6日 主のみ使いが現れて「恐れるな、見よ。すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである」と、野宿していた羊飼いたちに告げました。

 「するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、み使いと一緒になって、神を賛美して言った。『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、みこころにかなう人々に平和があるように』

 「羊飼いたちは急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼い葉おけに寝かしてある幼な子を探し当てた」(ルカ2:10-16)

 あわてたヘロデ王が祭司や律法学者を集めてキリストはどこで生まれるのか?と追及したところ、「ユダヤのベツレヘムです」(マタイ2:3-6;ミカ5:2)と彼らはミカの予言でその場所を特定していました。ベツレヘムはダビデが生まれ、王として油を注がれた場所です。(サムエル上16:4-13)ヘロデはベツレヘムとその周辺の2才以下の男の子を殺せと命令しました。そのことをヨセフは夢で告げられ、マリヤと幼な子を連れて急いでエジプトに逃がれました。(マタイ2:13-14)

 イエスの親戚に当たるバプテスマのヨハネの父ザカリヤは、妻と息子を山に逃しその居所について決して口を割りませんでした。そのため神殿の入り口と祭壇の間で殺害されました。(ルカ11:50)彼はキリストの時代の最初の殉教者となったのです。

ヘロデが死んだ後、「ヨセフは幼な子とその母を連れてイスラエルの地に帰りナザレの町に住んだ」(マタイ2:2-23)

 「イエスはますます知恵が加わり、背丈も伸び、そして神と人から愛された」(ルカ2:52)
 「イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ30歳の時であった」(ルカ3:23)
 「そして彼らの中のひとりの律法学者がイエスをためそうとして質問した。『先生、律法の中でどのいましめがいちばん大切なのですか』。イエスはいわれた『こころをつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とがかかっている」。(マタイ22:35-40)

イザヤは主のみ名をダビデの子と呼び「ダビデの家の鍵を彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない」(イザヤ22:22;黙示2:7)とメシヤの有する絶対的な権威と権能を宣言しています。

 当時のユダヤ人はローマの支配から救い出してくれるメシヤを待ち望んでいました。(ゼカリア14:16-21)しかし、裁判に引き出されたイエスを「見よ、これがあなたがたの王だ」とピラト(ローマの総督)に示されても「私たちにはカイザル以外王はありません。殺せ、十字架につけよ」と叫びました。(ヨハネ19:15)
ピラトは、手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って(ユダヤ人の習慣、申命21:1-9)言った。「この人の血についてわたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると群衆全体が答えて言った。「その血の責任はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。(マタイ27:24-25)こうしてユダヤ人はキリストの死の責任が自分たちにあることを認め、以来国から国へ、何世紀にも渡って「すべての国民の中に散らされ、すべての人から憎まれるようになった」。(1ニーファイ22:5)「.彼らは心を背けて、イスラエルの聖者をさげすむので、肉にあってさまよい、滅び失せ、すべての国民の中であざけられ、笑いぐさとなり、憎まれる。」(1ニーファイ19:14)

 そしてイエスはゲツセマネで全人類の罪のために苦しまれ、十字架上で血を流されて死にました。ご自身を「最大にして最後の犠牲」(アルマ34:10)として捧げて贖罪を完結されたのです。アダムの時代から今日まで全ての人類の犯す罪の代価を贖罪によって支払って下さいました。

 3日めに復活されたイエスは、アメリカ大陸のニーファイの民を訪れました。「見よ。わたしは神の子イエス・キリストである。わたしは天地とその中にある万物を創造した。わたしは初めから父と共にいた。わたしは父におり、父はわたしにおられる。そしてわたしによって父は御名に栄光を受けられた」(3NE9:15)と。復活されたイエスは東半球の人々と同じように西半球のニーファイ人に救いの業を行われ、キリストの教会を組織されました。(3NE26:17-21) 

 AD64年7月ローマは9日間猛火に包まれました。暴君ネロが自分の罪の隠匿を図るため、又、市の中心部に新しい宮殿を建てるために自ら放火したといううわさが広がり、ネロはそれをキリスト教徒のせいに仕向けたのです。こうしてローマ人による最初の迫害によりAD67頃ペテロもパウロも殉教しました。
 エルサレムはAD70年ローマ軍によって完全に破壊されましたが、初期のクリスチャンの歴史家エウセビオスによれば、エルサレムに住む聖徒達は啓示による導きを受けて、市を捨てヨルダン川を渡り、ガリラヤの海に向かう途中のペラに逃れました。こうしてイスラエルは預言通り地の全面に散乱していきます。(レビ26:33;第Ⅰニーファイ22:3-8)

 第二次世界大戦当時、中央及び東ヨーロッパの強制収容所やゲットーに集合隔離されていたユダヤ人約700万人のうち500万人が毒ガスや一酸化炭素、排ガスで殺害されました。
 「人類に対する犯罪」と言われているホロコーストの惨劇が独裁者ヒトラーのもとで組織的に執行されたのです。

 1995年6月ドイツに旅行したとき、ミュンヘン市の北部にあるナチス時代のダッハウKZ(ドイツ語でカーゼットと発音、収容所という意味)に立ち寄りました。一面砂利を敷き詰めてある広々とした場所でしたが、建物の中に入ると展示物がありました。壁に拡大された何人もの青年たちの白黒写真が何枚か並べてあり、そこには、気圧を徐々に下げていき死んでいくさまを記録したものだという説明が書いてありました。苦痛と恐怖に歪んでいく姿の写真を正視することができませんでした。
また残っていた小屋のような建物が「めざし」と呼ばれていたとガイドが言いました。頭の方と足のほうを交互にしてユダヤ人が寝かされた場所だというのです。
 以前NHKの番組でホロコーストの特集をやったとき、生き残ったユダヤ人の遺伝子にまで、受けた恐怖が伝わっていくと実例をあげて示していました。
 同行した人々は誰もが重苦しく無口でした。
帰るとき小学生の一団が入ってきました。自国の負の遺産を学ばせるのだ、と明るい気持ちになったのもつかの間、一人のかわいい男の子がスパスパとタバコを吸っているではありませんか!
 夫はヘルメットの形をした石ころを記念に拾ってきました。

  • 1823年9月21日 天使モロナイがジョセフ・スミスにイザヤ書11章の成就を告げた。
  • 1830年4月6日 末日聖徒イエス・キリスト教会の回復
  • 1836年4月3日 モーセがカートランド神殿に現れて「イスラエル人の集合」の鍵を回復した。(教義と聖約110:10)
  • 1841年10月24日 オルソン・ハイドが聖地パレスチナをユダヤ人帰還の地として奉献した。
  • 1917年 バルフォア外相はパレスチナをユダヤ人の故国として回復することを英連邦政府が支持すると宣言した。
  • 1918年 休戦以来合衆国と英国の支援を受けて大勢のユダヤ人がパレスチナに帰還した。
  • 1922年7月22日 国際連盟でパレスチナの委任統治権が英国に与えられたので、英国はパレスチナ復興のため数百万を費やして国中に農場を作り、ぶどうや果樹を植え、運河や貯水池を築き、水力発電所を建設し、工場を設備した。
  • 1947年11月 国連は聖地をアラブとユダヤに分割した。イスラエル人49万8000人アラブ人約同数の人口。ユダヤ人にイスラエル独立国家を与えるという案に異邦人の二大国家アメリカとソ連が共に賛成した。
  • 1948年5月14日 イスラエル共和国の独立。翌日アラブ諸国砲撃を開始、第一次中東戦争勃発、アラブの兵力は15万以上、イスラエルの兵力は3万、エジプト、サウジ、トランスヨルダン、シリヤ、レバノンのアラブの足並みが揃わなかったためにイスラエルの勝利となった。1973年まで大規模戦争が4回起こりアラブとイスラエルの対立は現在も進行中。
  • 2011年 チュニジアのジャスミン革命の影響を受けて、アラブ諸国の民主化運動が活発化。親イスラエル路線を維持してきたムバラク政権が倒れた。
  • 2011年9月23日 アッバース大統領はパレスチナ自治政府の国連加盟申請を申し出た。

 ユダヤ人は2000年以上経った現在も尚メシヤ(救い主)を待ち続けています。キリストが再降臨したとき「両手と両足の傷は何ですか?」と質問され「私の友の家で受けた傷である」(D&C45:51―52)と証言するその日までそれは続きます。

 預言と啓示がすでに成就していることに関しては信仰を必要としません。私たちは現在も啓示を受けているこの末日聖徒イエス・キリスト教会に属し、この時代に成就する啓示の目撃証人となれます。そしてこれから先の「まだ見ていない真実のことを待ち望む信仰」(ヘブル11:1アルマ32:21、エテル12:6)を養い育てていきます。

  • 以前、イスラエルの情報機関であるモサドの発生史を読んだのですが、改めて、日本人でイスラエル、ユダヤを理解する人が少ないとの表現を思い出しました。岸野みさをさんは、さらにモルモン書の世界を時系列で並行させた記述をなさっており、とても貴重な資料になっていますね。有難うございました。 -- 昼寝ネコ 2013-06-25 (火) 01:13:04
  • 紀元前600年ではなく、紀元前600年ごろです -- 2016-08-09 (火) 21:09:14
  • どなたかご親切にありがとうございました。今後も正確な情報をご提供頂きご指導下さいますようによろしくお願いします。 -- 岸野みさを 2016-11-15 (火) 21:22:39

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