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2013.10.06 エッセイ「記憶力」 投稿者:岸野 みさを

穀粒原稿 岸野みさを 131006

「故郷(ふるさと)」~文部省唱歌メドレー「ふるさとの四季」より

記憶力

岸野 みさを

 三歳のころ、両親と妹の四人で母の実家へ行った時のことです。私は父といっしょに馬の背にゆられ、木もれ日の山道をカッポカッポと登って行きました。振り返ると妹は母におんぶされて、同じく馬に乗ってついて来ました。その時のウキウキとした幸せな気持ちを、今もはっきりと思い出します。はるか遠くに過ぎ去った幼い日のできごとなのに……。四歳のころ、はじめて読んだ本は、「きのこのきのすけくん」でした。内容は覚えていませんが、茶色の大きなきのこの絵が描いてありました。次は、おばが読んでくれた「母を訪ねて三千里」でした。冬こたつに入ってボロボロ泣きながら聞いていたそうです。このように記憶をたどっていって「産湯の記憶まである」という人もいると聞きました。 
 
 私は母に晩年、自分史を書くように勧めました。出来上がったものをみて、非常に驚いたのは、その情報量が膨大で鮮明なことでしだ。日記をつけていれば正確さを検証できるのだがなどと思う余地を与えないほど完結されていて、私の子供のころの記憶とも合致していました。

 母の自分史の一部をご紹介します。

 「私は23歳で結婚して、小川村から美麻村に来ました。翌年長女のみさをが生まれました。初めての赤ちゃんだったので、大分気を遣って育てました。其の頃は戦争中で物資がなく、自分の着物などを解いておむつにしたものです。満一歳になると、誕生の祝い餅をついて、赤ちゃんの背中におぶさせるのです。一歳二ヵ月位経って歩きはじめました。最初は伝わり歩きで、一歩歩いた二歩歩いた、七歩歩いたと数へながら、引き延ばすようにして、大きくしました。

 其の頃物資はみな戦場に送られました。子供の遊びと言へば、はじきや縄跳び、ビー玉、お手玉、あやとり、千代紙や紙芝居などでした。長女のみさをは、おとなしく遊んでいると思へば、紙をやたらに切って遊ぶ子でした。そしてラジオをかけると、中から音がするので不思議そうにラジオをのぞきこむようにして見たり、其の前で音楽に合わせて踊るのでした。(これは自分でも覚えている。どうして箱のようなものの中から音楽が聞こえてきたり人の声が聞こえて来るのか不思議でした。)

 だんだん知恵もついて、絵本や本を見ると、其の絵を見ながらそらで読むようになりました。(初めて買ってもらった絵本は前述の「きのこのきのすけ君」でした。父が川中島のあんず農園に出稼ぎに行ったときに買ってきてくれました。あんずも美味しかったのは言うまでもありません。)
そして紙があれば、はさみで色々な模様に切ったりして、何かをやり始めると一時間や二時間くらいおとなしくしていました。其の他、千代紙で色々畳んだり、はじきやあやとりで遊んだり、庭に出ると、かくれんぼや石蹴りなどをして過ごしました。
 田舎の、しかも山の中ですから鳥や蝉の啼き声、とんぼやこうろぎの啼き声、バッタやいなご、蛍など田舎ならではの大自然の中で育ちました。

 其の頃、支那事変(日中戦争)があり、若い兵隊さんたちは戦場へと出征して行きました。食料は戦地へ送られるので、内地の人は魚もあまりなく、菓子や砂糖、飴などもなく、衣類は一年に一回位、部落単位で配給がありました。砂糖も一人当たり、ほんの少ししかありませんでした。それでもお国の為だと、ほとんどの人はそう思い込んで、不平不満も言わずに暮らしてゐました。子供のおもちゃどころか、履く靴さえありませんでした。ヤミ屋が子供の長靴などを持って来て、物々交換をしたものでした。みさをに長靴を買ってあげると、喜んで夜寝る時も自分の枕の所に置いて寝てゐました。
 着るものといい、履くものといい、みな不自由したものです。子供のものを作るにしても、自分の着物を解いて作って着せたのです。大人も子供も皆不自由して暮らしたのでした。兵隊さんに千人針で虎模様の腹巻などを、作ってあげたこともありました。
 子供は不自由しながらも、だんだん成長していきました。お菓子などなくても、何も知らずに満足してゐました。家で作る飴や饅頭に、満足してゐました。

 小学校一年に入学した時も、配給で男の子の服が廻ってきて、それを着せて学校に行かせました。みさをは几帳面で、毎朝学校の日は起こされなくても、自分で起き出して支度をしました。日曜日は、朝起こされるまで寝てゐました。学校の成績は抜群でした。一年から優等生でした。みさをは子供の頃、急性胃腸カタルになりました。

(これは自分でも覚えていて、4歳違いの父の妹のおば、美恵子と彼女の同級生の百合子さんたち数人とで山間の田んぼに遊びに行きました。田んぼの土手にツツジが咲いていて葉のツツジ餅を食べました。サクサクしてプラムのような味で美味しいのです。これは担子菌に属するカビが葉に感染して、感染した菌が生産する植物ホルモンのせいで葉の組織をもちのように膨張させるのです。そんなことを知る由もなく、食べ物のない時代で野にある食べられるものは何でも食べました。
 そして私は気を失いました。おばや百合子さんがかわるがわる私をおぶって山道を登り百合子さんの家に着きました。百合子さんは家にあった梅漬けの汁を飲ませてくれて私は意識を取り戻しました。百合子さんは命の恩人です。その百合子さんが後年、近くの青木湖という湖に投身自殺をしてしまい、失恋したくらいでなぜ死んでしまうの?と、おばが泣いていました。命の恩人を失った私はただ呆然としていました。)

 また水ぼうそうで高熱が出て、本当に大変でした。其の頃美麻村は無医村でした。大町か白馬か小川村の医者にかかるのです。それも何の乗り物もないのですから、朝早く起きて、子供をおんぶして行きます。薬をたくさんもらってきておいて、飲ませるのです。それでも昔の子供は根が丈夫でしたから、助かりました。

 昭和17年7月6日次女の智が生まれました。此の子は小さく可愛らしい子です。姉さんのやることを、何でも真似して、教へてもらいました。あまり目立つのは嫌いな子で、姉のみさをはよく面倒をみてくれて仲良く遊びました。
家の者が神城の平地にある田圃に働きに出ても、家に残り、妹や近所の友達と仲良く野の花などを集めて、家の者が帰るまで一日中遊んでゐました。家の者は朝早くから夜遅くなるまで帰らないのです。それでも子供は家の者が帰ってくるのを待ち続けていました。それは一日や二日ではありません。(これも覚えていて二階の廊下に行って、二人でお弁当を食べたり、家の裏にあるみねぞの木に登って小さな赤い実を食べたりしました。)神城の田圃を手で耕すのですから大変な重労働でした。其の頃は農作機械などというものはないのです。そして作ったものは軍隊に出すのでした。白米ばかりたべてはいけない、麦ごはんか粗食のものを、食べなくてはいけない時代でした。

 支那事変から第二次世界大戦へと戦争は拡大されました。夫は二回の徴兵検査に合格しませんでした。若い頃マラソン選手だった夫は足を痛めていて、それが原因だったのです。その代りかのように夫の馬は赤いタスキを掛けられて戦場に送られていきました。
 アメリカのB29が毎日偵察に来るので、電気の光が外に漏れないように黒い布で覆いました。(これも覚えています。飛行機の爆音が遠くに消えていくまで息を潜めるようにしていました)土蔵の壁の白いのは目立たなくするために、ほとんど黒く塗りつけました。日本の軍隊は大勢で中国や南方の島々に上陸して、現地の住民を殺害したり、食べるものを取り上げて戦争したというのです。
 しかし、アメリカは沖縄に上陸、本土にも上陸、やがて広島と長崎に原子爆弾を投下しました。土地も建物もみな全滅。其の時の死者は何十万という数でした。その前の東京大空襲では多くの人が死に、焼け出され、親兄弟も別れ別れになって田舎の親戚に疎開しました。その前の沖縄戦ではアメリカ兵が上陸するというので、家族が皆討ち死にのようにして、強い父が子供や年寄りや妻を殺して、自分が最後に自害をしたそうです。戦争の傷痕は消えることがありません。

 原子爆弾の時代に、日本はエイヤーと竹やりの練習をして戦争を続けていたのです。天と地ほどの違いでした。それがわからず、お国の為ならと命をかけて戦いました。天皇陛下様も、戦争に勝つ見込みがなくなった時、昭和20年8月15日のその前日に、農家に連絡があり、「明日のお昼頃、ラジオを聞くように」ということでした。
 皆ラジオを聞いていましたが誰一人として、その内容が分からずじまいで、そのうちに、日本が戦争に負けたという話が広がりました。戦争なんて残酷なことを、どうしてやったのでせう。若い働き盛りの人達が幾十万と戦死したのです。大事な夫や息子たちが、若い命を落として逝ったのです。

 亡き母、田中(保科)志づ枝 68歳当時の記録より。

 人間の脳の働きは、よくコンピュターと比較されますが、もっと性能が優れているといわれます。脳には、見る、聞く、話す、考える、触れる、手足を動かす、ものを作りだす、記憶する、と種々な働きがあって、どの部分が何をするかは決まっています。記憶するのは、外側大脳裂といわれる場所の働きにより、聞くこともまたこの部分の働きだそうです。最近物忘れや、人の名前がすぐ思い浮かばないなどの記憶力低下が気になっていますが「咀嚼がボケを予防する」と大島清京都大学名誉教授の説を知りました。大脳生理学が専門の同氏は「歯や歯茎には、たくさんの神経が通っていて、よく噛むことによって発生した、複雑多岐にわたる情報を脳に伝える。それによって、より多くの神経ネットワーク活動が維持され、いわゆるボケのような、脳の機能の衰えを防ぐ。運動をしないと筋力が衰えるように、脳細胞の神経ネットワークも常に刺激を与えて活動させないとどんどん衰えていく」と述べています。よく噛むことで、ガンを予防すると説いている西岡一同志社大学教授は「一口三十回の会」を勧めていて、私などは一口十回ぐらいしか噛んでいなかったことを反省して、外側大脳裂活性化のため、ボケ防止、ガン予防のため一口三十回をめざして、小さな努力を続けている昨今なのです。
 
 
 

  • 馬の背にゆられ、木もれ日の山道をポッカポッカと登って行きました。の冒頭の部分を読み、童話が始まるのかな、思うほどのどかな思い出ですね。馬の名前と、その後の馬の行く末が気になります。たしかに咀嚼の効力はある物質が分泌されることにより、老化の防止になり、ボケの予防になる働きもあり、さらに、よくかむことで記憶力、集中力、判断力が高まるそうです。わたしは、あらゆることをかみさんに頼っています。だからボケ防止もカミ頼み(^_^) -- シルバーレンジャー 2013-10-06 (日) 17:50:50
  • 馬の蹄の音はカッポカッポでその反対ではありません。馬の名前は聞いたことがありませんが、黒い毛並の綺麗な痩せた馬で父がたずなを引いている写真が一枚手元にあります。軍馬となって戦場に送られた愛馬が生きて戻れるわけがありませんので悲しい別れだったと思います。
    ところで、シルバーレンジャーさん呑気な時代のカミ頼みもなあ~。 -- 岸野みさを 2013-10-06 (日) 18:24:53
  • ようやく読ませていただく時間ができました。
    家族関係の、純粋で清冽な様がよく表現されていますね。
    今の岸野姉妹の原型を、お母さまの言葉で説明され
    なるほどと、得心しています。
    「感性と人格は、幼児期にその原型が形成される」と
    誰かがいっていますが(あっ、それは私だったかもしれません)、
    ここに、日本人の感性と人格のDNAが醸成された
    瞬間を見た気がします。 -- 昼寝ネコ 2013-10-07 (月) 00:35:50
  • DNAですか。そういえば先日小学校のPTA会長をしている娘が卒業式にこんな話をしたいのだけれど言うので「今から準備しているの?」と呆れると娘はこう言うのでした。
    「皆さんに何があっても、皆さんを愛しているご両親や家族がいることを決して忘れないで下さい。」!!!なんと何十年前に息子の中学卒業式でPTA役員として、生徒たちに贈った私の言葉と同じではないか!私は娘と顔を見合わせて「ええっ!」と驚きました。これが
    DNAなのでしょうか? -- 岸野みさを 2013-10-07 (月) 07:09:47

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