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14041901増井 重治

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2014.04.19 エッセイ「祖父との遭遇〜おじいちゃんは校長先生」 投稿者:増井 重治
 
祖父との遭遇〜おじいちゃんは校長先生
 
 
増井 重治
 
 ふるさとに帰ろう。東京で行き詰ったわたしは父が生まれ育った長野に転職した。借家に着いた翌日子どもの転校手続きのため小学校に行った。校長室であいさつを交わす。何気なく回りを見渡すと、歴代校長の表を見つけた。その中のひとりに釘付けになった。『増井湧太郎』わたしの祖父だ。
 生前父は祖父について多くを語らなかった。写真もなく、わたしが生まれたときすでに他界していた。以前から祖父の面影を捜していた。長野に来る前役場に手紙を送った。
「突然の便り失礼いたします。このたび東京を離れ長野に引っ越すことになりました。ところで戸籍を調べてみますと祖父、父とも信州の出であることがわかりました。祖父の名前は増井湧太郎、明治六年出生、南佐久郡臼田町出身、明治二十八年長野県師範学校卒業。南佐久郡田口尋常高等学校を経て、大正四年東筑摩郡麻績小学校校長を最後に依願退職をしています。
 どのような些細なものでも構いません。写真、学校史、学校記録、資料などありましたら連絡してください。お手数ですがよろしくお願いたします。」
 その後手がかりになる回答は得られなかった。よもやここで祖父にめぐり会えるとは。おじいちゃん初めまして、これがあなたのひ孫ですよ。わたしは娘と息子を紹介した。一瞬、湧太郎の名札が震えたのは錯覚だったのだろうか。8回の春夏秋冬が巡り、わたしは母の介護のためふるさとを後にした。増井湧太郎が増井家の系図探求に多大な貢献をしていたことをこのときのわたしはまだ知らなかった。
 
 
 

  • 不思議な経験でしたね。私は系図探求で、母方の祖父の生地である青森県・金木町(今は五所川原市)へ行きました。役場で手がかりがなく、たまたま通りかかったお寺の境内に入りました。アルバムで見た1枚の写真は、祖父が新たに墓石を建てたのを記念した集合写真でした。記憶を頼りに、もしかしたらと思って探したのですが、何も見つからず諦めて帰ろうとしたら、目に飛び込んできたのは朽ちかけた墓石に刻まれた、祖父の名でした。住職に挨拶をしたら、所有者不明になっていたそうで、電話で報せを聞いた祖母はとても喜んでいました。太宰治と同年代で、そのお寺は太宰の菩提であることを、後日知りました。校長室でのできごとを読み、当時のことを思い出していました。有難うございます。 -- 昼寝ネコ 2014-04-19 (土) 20:46:42
  • 増井重治さま
    ご祖父さまのお導きだったのですね。さぞ驚かれたことでしょう。名札ばかりでなく表情もにっこりされたのではありませんか?私の場合は母の姉の夫が系図に関心があってお寺さんに行って過去帳を調べてくれました。 -- 岸野みさを 2014-04-19 (土) 22:17:20
  • 私も40年ほど前に湧太郎を求めて当時の小学校を探してみました。やはり麻績小学校だったと思いますが、当時の卒業生アルバムを見せてもらうと卒業生たちに囲まれて小さく映っていました。眉毛が短いところがよく似ているなと思いました。当時の祖父のことを覚えていたかなりご高齢の方に病院でお会いしました。その方いわく、「とにかく酒が大好きな人でした」とのこと。私も弟も宗教上の理由で酒をやめていなかったらかなりの呑兵衛になっていたに違いありません。この話まだしていなかったっけ。ごめんね。 -- 増井重之 2014-08-17 (日) 21:52:42
  • 系図探求といえば思い出される話があります。私が系図に興味があることを聞いて伯母が風呂敷包みを持ってきてくれました。中を見ると先祖代々のことが詳しく書かれた記録でした。伯母の話によると東京大空襲の時も着の身着のまま逃げ回っていたのになぜかこの包みだけは決して肌身離さずにしっかりと抱きかかえて守ったということでした。私に手渡す時に言っていた言葉が印象に残っています。「あの時はわからなかったけれどもあなたにこれを託すためだったのね。」 -- 増井重之 2014-08-17 (日) 22:11:44

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