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2014.04.19 文芸・歴史評論「司馬文学に魅せられて」(青梅文学第14号1997年より転載) 投稿者:保阪三郎

モーツァルト交響曲第25番クレンペラー&フィルハーモニア

司馬文学に魅せられて(青梅文学第14号1997年より転載) 
 
 
投稿者:保阪三郎
 
・・・(Ⅰ)・・・
 文学を語る時、あたかも恋愛のようなものだといった人がいた。
 偶然に人と出逢い、恋をする。それに似ている。ある文学作品と出逢い、作者を知る。そして、読書をする。時には熱烈なファンとなって次々と読む。
 自分のことを考えてみると正にそんな気がする。恋愛にしても十代の恋、二十代の恋、三十代の恋と比較してみると内容的にずいぶん違う。
 三十代の頃、友人が気象庁勤務の作家「新田次郎」を知っているかと問うた。人生の啓蒙書や社会科学の方面を読んでいたので知らなかった。「富士山頂」、「芙蓉の人」、「怒る富士」等気象と富士山が題材になっている作品を次々と読んだ。作家は気象作家と言われるのを好まず、武田信玄、武田勝頼の歴史小説の作品も多く、それらも読んだ。
 四十代になって剣道を習い始めたのを契機に剣豪宮本武蔵の人間像に興味を持った。吉川英治の作品を読んだ。その後新平家物語、私本太平記、三国志等を夢中になって読んだ。
 平成8年2月に司馬遼太郎がお亡くなりになった。今までに一冊として読んだものはなかった。夏になって剣道の先生が青少年に対して、「司馬遼太郎」を知っているかと問うた。
数人が手を上げた。次に同作家が「坂の上の雲」という作品を書くのに何冊の本を読んだと思うかと質問した。正確に当てた人はいなかったが7000冊であることを知った。それならばその本を読んでみようという気持ちになった。
 しかし、書店でまず購入したのは薄手の「歴史を紀行する」であった。内容は砂地に水が吸い込まれていくような気分になるものであった。
 特に「会津人の維新の傷あと」(会津若松)、近江商人を創った血の秘密(滋賀)、体制の中の反骨精神(佐賀)の項は感慨深かった。
 次に「歴史の中の日本」、更に、村田蔵六という一医者が、江戸時代から明治維新の歴史の表舞台へ登場して活躍する「花神」の上中下を読破した。この段階で完全に司馬ファンになった。そして遂に注目の「坂の上の雲」に進んだ。文庫本で8冊の長編である。前半は正岡子規、軍人の秋山好古、真之兄弟の明治の勃興期、伊予出身の三青年が坂の上の雲を目指して切磋する姿を描いたもので、後半は日露戦争についての歴史経過である。詳細の事実経過を理解することは今迄にない歴史認識を体得することになった。 
 
・・・(2)・・・
急逝して1年、平成9年2月12日には故人の好んだ花にちなむ「菜の花忌」が開催され、この間にも、自身の著作はもちろん、司馬文学や人となりについて書かれた本や雑誌の増刊号が切れ目なく刊行されてきたという。空前絶後ともいわれるこの現象は一体何なのか、ひと足先に私もこのブームの中に組み込まれた一員のような気がする。
 なぜ、ブームになったのかに対して、司馬さんの著作解説などを書いてきた文芸評論家、向井敏さんの見方は「全体を見渡せる、いわば〈万能人〉が望まれているのではないか。
 各ジャンルで優れた人はいるが、それだけでは頼りない。司馬さんが亡くなられて、すべてを見通しているのは、司馬さんだった。信用できる羅針盤だった、とみなが気づいたのではないか」(平成9.2.10朝日夕)と述べている。
 今、私は「街道をゆく」シリーズの「オホーツク街道」を読んでいる。その中身の素晴らしさにまたまた敬服している。この点からも先の見解に賛同し納得できる思いである。
 
・・・(3)・・・
 日露戦争の原因は満州と朝鮮である。ロシアのクロパトキン将軍の著の「満蒙処分論」では満州と朝鮮はロシアの直轄領になり釜山は軍港になり、対馬は要塞化され、日本本土はその属邦になっていたことが推察されるところであったがそれを免れた。
 国家財政における圧倒的な差があり、軍事力、かつ兵器力に於いて圧倒的に日本は劣勢であったが、ロシアは基本的な弱点があった。
 満州における初会戦のあとを見ても、その原因は日本軍の強さというよりも、ロシア軍の指揮系統の混乱とか上級指揮官同士の相剋とかがむしろ敗北をみずからまねく結果となっている。そのことは日本海海戦を演じた旅順、ウラジオストク港を基本とするバルチック艦隊の日本までの18000海里の航海を考えても、それ自体無謀であったといえる。
 日露戦争は、ロシアの歴史から抹消されているという。教科書でも数行書かれているだけということであり、国立海軍博物館でも、ロシア国家が経験した海軍の歴史を図式化したり、物品を展示したりしているが、世界の海軍史上最大の海戦である日本海海戦というのは消されているという。
 年代もいずれも展示品においても日本海海戦は全くないという。このことは剣豪宮本武蔵が吉岡道場と真剣勝負を行った記録が全く敗者の側に存在していないのと類似している。
 戦争の科学的な解明を怠り、むしろ隠蔽してしまう事は正しい歴史を歪曲してしまい後世に全くの不幸を招く結果にもなりかねない。
 旅順という地名は明治日本の存亡にかかわる運命的な語感と内容をもっている。今の旅順港を写真で見る限り平和そのものの風景を醸し出している。
 旅順要塞への乃木軍攻撃は余りにも多くの犠牲者を出した。そのことは司令部の試算ちがいとなり、無能ぶりと云われるに至った。読んでいても、戦略的な甘さ、近代戦への対応、研究、分析等が不足しているような気がする。今日のビジネスマンにこの作品が人気があるという要因として、自分の立場であったら、こうする、ああするといった場面に出会うことが随所にあり、考える機会を与えてくれる点があるからかも知れない。
 一日で陥落させるはずが191日を要し、世界戦史において未曾有の流血を出す結果となった。
 しかし、旅順港攻撃は難航したが、司令部のてこ入れ、戦略の転換等の結果、遂に落ちた。その時攻撃中止となり休戦となる。その光景が実に感動的である。
 「ロシア兵は堡塁上に全身をあらわし、互いに抱き合って躍っているかと思うと、一部の戦線にあっては、日本兵も壕から出てたがいにさしまねき両軍の兵が抱き合って躍るという風景がみられた」、「しかし、この人間としての歓喜の爆発をおさえることができるような将校はひとりもいなかった」としている。この光景こそ、死闘をくりひろげた敵、味方の境界が撤廃された、人間と人間との心の真実の表れのような気がする。
 ボクシングの対戦者同志がつらかったラウンドを越えて試合終了へ到達した境地で勝者も敗者もない、互いに称えあうその光景と同じである。
 国家は厳しくても、人間同士は共に敵愾心のない純粋な真実の人間愛をもつものである。
それなのに人類は戦争のおろかさを知りつつも何度もそれを繰り返して来たことか。人類の宿命かもしれないが…。
 ロシアが日本を情報として知ったのは1675年に清国に遣わせた官史によってであったが1699年にはカムチャッカで原住民に捕虜になっている一人の日本の漂流民に会い、その口から日本について聞いたのが始まりらしい。
 漂流民は大阪の谷町の質屋「万九」の若旦那で、商売の修業のために他家に奉公し、江戸から荷を輸送中、暴風に遭って船とともに、カムチャッカまで流され、仲間は原住民に殺されたり逃げたりした。しかし、この若旦那はロシアの官史によって優遇された。モスクワへつれてゆかれ、ピョートル大帝にも拝謁し、さらにピョートルの命令でイルクーツクに最初の官立日本語学校をひらいたという。その時代に一人の日本人がかくも優遇されたという事実は驚きである。(ロシアについて―シビル汗の壁―80ページ参照)。当時のロシアの関心が、シベリア開発を容易にするための国策の一環としてであったとしてもである。
 一方、悲劇的な一例としてニコライ・ネフスキーについて触れておきたい。
 彼は大正4年(1915年)23歳でロシアから官費留学生として日本へ来て、南樺太に住む人口減少民族の言語に関心をもち、言語学者として、文化人類学者となって不滅の名を残すに至った人である。
 昭和4年(1929年)、37歳で帰国し、母校ペテルブルグ大学で日本語を教えたという。
 しかし、昭和12年(1937年)、45歳時に国家保安委員会により逮捕され、つづいて日本人妻も逮捕された。逮捕される理由はあるはずもなかったが、当時は日本に友人が多いというだけで十分に粛清される理由がつけられ、同年、他の5人とともに銃殺されたという。(オホーツク街道―宝としての辺境―132ページ参照)。日本文化、社会への理解と貢献度からは文句なしであるが、歴史の潮流、歯車に組み込まれてしまった悲しい結果でありやりきれない思いである。あとになって名誉が回復され、さらにレーニン賞が追贈されたとしても同人ら関係者の悲しみは癒えるものでない。
 初めの日本人との比較に於いてその明暗を痛く感じる。
 さらに暗の例として、「世に棲む日日」の吉田松陰のことが頭に浮かぶ。下田から世界を見たいと、アメリカ通商艦隊へ懇願するも失敗に終わり、国禁に触れたとして29歳の若さで、明治維新のあけぼのを前にして無念の死をとげた彼を思うと、今日、外国へ行くことが何でもない時代にあっては惜しい限りである。
 
・・・(4)・・・
 近代民主主義は過去の不幸の遺産の上に成り立ったもので尊いものである。がしかし、欠陥やら不足もあるかも知れないが人類の英知の結果といえる。戦争をにくみ、平和を尊ぶ。私はその一人でありたい。一昨年被爆50年節目の年に当たって、核兵器のない平和な世界をめざして「被爆50年、反核平和マラソン(東京―長崎1500キロ)」が開催された。95原水爆禁止世界大会の成功、ヒロシマ、ナガサキアピール署名達成と呼応し、労働者とスポーツ愛好者の力を結集して東京夢の島、第五福竜丸から長崎まで1500キロを平和のタスキをつないで走るものであった。私も縁あって参加の機会を得た。正月の箱根大学駅伝で話題になる多摩川にかかる六郷橋の区間を引き受けた。しかし、前日、都合でキャンセルし、幻に終わってしまった。その夏は国際世論を無視してフランスがビキニ諸島にて核実験を強行していた時でもあった。しかし、翌年も同様のマラソン大会があり、7月末の炎天下を3区間、3人分の15キロを走り、平和の尊さ、核兵器の廃絶をアピールしながら参加できたことは生涯の記念となった。前回こだわった六郷橋の区間を走ることが出来、横浜駅前、そして横浜スタジアム、市役所のゴールへ到着した。走り終えて帰宅すると中国の核実験を報じておりむなしさを感じたが、初秋には国連で決議され以後恐らく核実験はなくなる運びとなった。
 
 
 

  • 初投稿を有難うございます。歴史的な構造についても精緻に掘り下げてくださり、大変勉強になりました。昨今は、情報の伝達が時差や地理的な制約を受けず、瞬時に完結する時代になりました。なんでもがドラスチックに変動する世相でもありますので、やはり歴史の変遷を正確に把握しつつ、将来を展望するという視点を、できれば一般市民も持つよう、時代が切実に要求しているのだろうと感じています。またのご投稿を楽しみにしています。有難うございました。 -- 昼寝ネコ 2014-04-19 (土) 21:18:59
  • 保阪三郎さま
    司馬遼太郎さまは1943年に学徒出陣をされているそうですね。司馬さまの戦車連隊は本土決戦に備えて栃木県佐野に戻っていたので8月9日のソ連軍満州進行で粉砕されなかったと聞きました。司馬さまがご自分が生きた昭和の歴史を書けなかったのは戦争体験による
    のでしょうか? -- 岸野みさを 2014-04-19 (土) 22:01:38

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