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2014.10.31 エッセイ「命のパンと水」 投稿者:岸野 みさを

Jean Sibelius - Finlandia Op.26
 
命のパンと水                
 
 
岸野 みさを

アダムからキリストまでの4000年間、神は民に生贄をささげるように命じました。従順な人々は、羊の初子の傷も無く汚れも無い最も上等なものを殺し生贄として捧げました。それはやがてこの地上に降誕し、全ての人類の罪を贖うために生贄となる主イエス・キリストのひな形であり、予表であったのです。

古代の人々はまだ生まれていない救い主の為にそれを行い、現代の私たちは預言通り「我々のとがのために傷つけられ、我々の不義の為に砕かれ、その打たれた傷によって我々はいやされ」て(イザヤ53章)いるイエス・キリストの体の記念にパンを頂き、流された血の記念に水を頂いています。最後の晩餐で「わたしを記念するためこのように行いなさい」(Ⅰコリント11:24)と、贖いの犠牲を記念させるためにイエス・キリストがお命じになったからです。「主イエスは渡される夜、パンをとり感謝してこれをさき、そして言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい』。(第1コリント11:24-25)

マタイ26:22、24-25のジョセフ・スミス訳では「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取って裂き、それを祝福して、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはあなたがたのために贖いとして与えるわたしの体を記念するものである』『これは罪の赦しを得させるようにと、わたしの名を信じる全ての人のために流すわたしの新しい契約の血を記念するものである。わたしはあなたがたに戒めを与える。あなたがたは、わたしが行うのを見たそのことをあなたがたも努めて行い、最後までわたしのことを証しなさい』

末日聖徒のある友人が某国の末日聖徒の現地の教会に出席して、聖餐の水とパンを頂きました。そこまでは同じだったのですが、その後何人かの人々が持参してきた弁当を食べ始めるという光景を目の当たりにしてパウロの勧告を実感したそうです。

コリントの教会では初期の聖徒達は聖餐を取るだけでなく、食事も共にしていたようで、その習慣が乱用されたり、利己的な人々や、酔っ払いが増えてパウロは彼らに聖餐に集う前に各自の家庭で食事をしてきなさいと勧告しました。「そこであなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには飲み食いする家がないのか」(第1コリント11:20-22)

「だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ盃を飲むべきである」。(第1コリント11:28)「自分を吟味する」ということについてパウロは第2コリント13:5でも勧告しています。「あなたがたははたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それともイエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたはにせものとして見捨てられる」。

聖餐を受ける前に自分の罪や弱さを克服して努力している人にはイエス・キリストの大きな助けがあります。「もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしのめぐみは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう」(エテル12:27)

ハロルド・B・リー大管長は次のように勧告されました。
「神のあらゆる戒めのうちで最も大切なものは、今あなたが最も守りにくい戒めである。それは正直でないことかもしれない。清くないことかもしれない。偽ることかもしれない。あるいは、真実を語らないことかもしれない。その弱点を克服できるまで努力する日は今日である。あなたにとって最も守りにくい戒めに着手しなさい」

8月31日に孫の一人がアロン神権の授与に預かりました。聖餐のパンと水のパスをする姿を見ていると主の計画の偉大さに胸中が揺れ動きます。エズラ・タフト・ベンソン大管長は「家族が共に祈る姿は美しい」と宣べられました。「家族が揃って聖餐のパンと水を受けている姿は美しい」と言いたいと思います。「青少年のアロン神権者がパスをする姿は美しい」と言いたいと思います。実は、神への務めを果たしている筈の一歳年上のアロン神権者であるもう一人の孫のことを思うとエレミヤのように骨の中に火が閉じ込められているように感じます。二人は並んでパスをしている筈なのに、その姿はありません。4月に中学生になるとテニス部に入ってしまい教会には来なくなってしまいました。小さい頃から彼のニックネームは「貴公子」でパスをしている孫は「下僕」でした。「下僕」のママが名づけましたが本人たちは知りません。

後者にパスをしてどうだったか感想を聞いてみると彼は「落とさないように緊張する。人数分が足りているか気にかかる。皆さんがちゃんととれているかどうかしっかりと見る。重い責任だと思う」と話してくれました。彼はプライマリーの頃は聖餐のパンを、特に断食日などは大きなパンきれを見つけて取ったものでした。

昔、ハワイ神殿団体訪問の時のことでした。聖餐会が終わって外に出ようとすると一人の白人の少年が近づいてきて「ハイ」と言って私に水色の帽子を手渡してくれました。「あっ、ありがとうございます!」うっかり、座っていた椅子に置き忘れたのでした。でもどうやって私の帽子だと分かったのでしょう?その場には多くの日本の会員たちが居ました。アロン神権者のその少年は私がどの列の何番目の椅子に座っていて、尚、水色の帽子を手にしていたことを確認していたのです。私は驚きと共に、まさにその「天使のような働き」に感動しました。当時の私のホームワードには青少年のアロン神権者は居ませんでしたので、私の驚きを想像してみてください。

私は50年間聖餐のパンと水に預かりバプテスマの聖約を新たにしてきました。過ぎ去った日々の生活の中で悔い改めと霊的な強さをもたらし、「御子のみたまを受けられるように」(D&C20:77-79;モロナイ4:3;5:2)という祝福が自分の身に起こったのかどうかを振り返って考察します。

パウロはガラテヤ人の手紙5:22で御霊の結ぶ実について宣言されています。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠実、柔和、自制であって」
「その実によって彼らは(私たち)見分けられる」とはキリストのみ言葉です。(マタイ7:16)
 
 
 

  • 大変克明に説明してくださり、有難うございます。聖典もそうですが、忙しさに流されて読むと、字面の表面しか理解できないことになると思います。なので、掲載作業が終わったら、後刻ゆっくり読ませていただきます。 -- 昼寝ネコ 2014-10-31 (金) 21:14:21

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