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2015.04.16 穀粒記者レポート・推薦著書「天皇を救った男」~投稿者:岸野 みさを

海ゆかば 伊藤久男
 
「天皇を救った男」
 
 
岸野 みさを
 
「天皇を救った男」アメリカ陸軍情報部・日系帰米2世 伊丹明 スティーブ・鮫島 著

 はじめに伊丹明は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員M・Iの父上であることをご紹介します。

 1946年8月15日 伊丹明は陸軍情報部時代の情報分析の功績に対して名誉あるリージョン・オブ・メリット(Legion of Merit)勲章をアメリカ陸軍から授与された。
 彼は「日本は『天皇』を中心に国家形態を成しており、天皇という核が日本国民の中から排除されれば崩壊の一途を辿る」と報告していてアメリカ政府は特にこの部分に注目し、キーナン主席検事が帰国した時に、天皇訴追を排除するように命じた。(本文P、256)マッカーサー総司令官とワシントン政府は天皇に対する訴追を行わないことを決めたが、ソ連、中国、オーストラリア、フィリピンは天皇を法廷に引き出すことに執着した。(本文P、222)ウイリアム・ウエッブ裁判長(オーストラリア代表判事)はこの裁判の最大の責任者は「天皇」であると信じており、東條の証言により、天皇をこの法廷に証人として引き出せるのではないかと、密かに期待していた。(本文P、354)11月7日ウエッブ裁判長がオーストラリア首相からの命令で高等法院の裁判のために帰国しなければならなくなった。~(これは)天皇を法廷に引き出すことに固守するウエッブに対し、アメリカ政府やマッカーサー司令官がオーストラリア政府に働きかけた結果であった。(本文P、348)

(リージョン・オブ・メリット勲章)
 アキラ・イタミは日本側の公文命令、典範書類、規定条例など4000部以上に上る参考図書を蒐集し、主題総数25000余に分けて、之に索引を付し、之を基礎として、各方面よりの求めに応じ、他に入手不可能なる多数の軍機情報に関する質疑事項に回答を与えた。日本語及び軍事に関する旺盛なる知識を駆使し、イタミ曹長は日本の統帥機関の発した諸命令、陸軍各技術研究所、徴兵並びに兵員補充の制度等に関する多くの公の資料をその図書より抽出、その結果として、太平洋における戦争の遂行に貢献するところ大きいものがあった。(本文P、254)

 1923年設立の大東文化大学の通訳演習室に置かれている同大学OBの伊丹明のレリーフ像は彼の幼少からの友人で「イタンさあ」「ロクロさあ」と呼び合っていた彫刻家法元六郎の作である。東京裁判の通訳現場で伊丹明がヘッドセットを付けて仕事をしているプロフィールだ。伊丹明は山崎豊子の小説「二つの祖国」の主人公天羽賢治のモデルである。
www.daito.ac.jp/gakuin/tsuyaku/html/2.htm
 同大学は東京裁判から50年の時を経て日本で初めての通訳大学院として会議同時通訳者養成課程を開設した。

 以下、455㌻の「天皇を救った男」の概略をまとめてご紹介します。

 伊丹明(1911年4月20日-1950年12月26日)はカリフォルニア州オークランドで父・丈四朗、母ヨシ子の4男として生まれた。父母は2人共鹿児島県加治木村の出身で、伊丹家は第17代薩摩藩主島津義弘公のお膝元「加治木島津」に仕える上級家臣であった。同村は隣接する国分村と同様に多くの移民をアメリカに送り出していた。

 両親はオークランドでクリーニング店を営んでいた。明が生まれた時3人の兄はすでに加治木村の丈四郎の妹ハキに育てられていた。両親は朝早くから夜遅くまで働きづくめで子供たちの面倒が見られず、養育費の送金のためにも更に仕事は過酷なものになった。明も1歳半で妹に託された。
 ハキ叔母は明に「薩摩の男はいかにあるべきか」を教え尋常小学校に上がる頃には「青雲舎」に通わせた。読み書きから武道の稽古に優れていた明はすぐにリーダー格になった。そして薩摩の青少年を教育する「郷中教育」を受け、小さい頃から興味のあった漢文や古典にも本領を発揮して天童と呼ばれた。12歳で柅城小学校5年を終わると6年を飛び級して旧制加治木中学に16番で入学した。13歳で陸軍幼年学校を受験したが「痔」の持病があって不合格、15歳で受けた陸軍士官学校と海軍兵学校も出生地を「米国」と書いたことが原因で不合格となった。軍人となり日本の為に尽くす事と、親に金銭的な負担をかけまいと選んだ進路が閉ざされてしまったのである。

 そんな伊丹にクラスの担任が創立5年目の「大東文化学院」の情報を教えてくれた。学力さえ優秀なら授業料免除のうえに生活費まで支給してくれるという条件で各都道府県に1名、時には2名の優秀な若者を推薦するように依頼していたのである。

 上京に際しては青雲舎の7歳年上の先輩である「曾木隆輝」が(東京帝国大学を卒業して外務省に勤務していた)面倒を見てくれた。曾木が夏休みに帰郷したときなど東京の話や世界情勢を話してくれて伊丹には雲上人の存在だった。この曾木の下宿で加治木村の法元六郎や小川力に会い親交が深まった。

 このころ伊丹は弓道で知り合った渋谷の小梶家に転宿し、そこの娘と恋仲になったが師範の小梶が伊丹のアメリカ生まれに拘った。またもやアメリカ生まれという出生が災いしたのだ。自分を拒絶する日本に絶望を感じるようになった伊丹はアメリカに戻る決意をする。時は世界恐慌の中でアメリカ経済はどん底状態だった。
 曾木は先輩として伊丹の帰国に必要な金を工面するために上京している加治木有志のカンパに頼った。皆は乏しい仕送りやアルバイトの中から少しずつ出し合ってくれた。曾木は数日間で集まったお金で船の切符と背広を購入し、残金を全て伊丹に渡した。

 20日間の船旅で太平洋を横断して生まれ故郷のオークランドに到着した。父と兄2人の出迎えに涙の再会を果たした明はタクシーを拾わずバスに乗り込む3人をいぶかったが、バスに乗り込むと乗客の射すような視線が向けられたのだった。日系人に浴びせられる「差別と排斥」を知り、タクシーを拾いたくても乗車拒否されるだけの状況にあることをはじめて知った。

 暫くして伊丹はアラスカの缶詰工場で作業員を募集している広告を見付けて応募した。面接を受けて独学で始めた英語が通じたことに気づいた。3か月間働いたアラスカから戻った彼は、1937年のアメリカ文学集に掲載された短編「アラスカ小品」を書いた。後に「加州毎日新聞社」に勤務して副編集長としてその才能を開花させた。

「優れた日本人であることが最良のアメリカ市民である」との伊丹の論説を読んで感銘を受けた斉藤博駐米大使からワシントンの日本大使館勤務の依頼があった。1935年6月から日本大使館での仕事が始まるも伊丹には何となく違和感があった。
 伊丹の任務は情報収集で得意の英語を駆使してアメリカで発刊されている幾種類もの新聞や雑誌から軍事に関する記事を日本語に訳す仕事であった。~伊丹はワシントンの仕事には馴染めなかった。日本から派遣されている外務省職員と確執が生じた。これらの役人が訳した英語を伊丹が訂正すると、極端に嫌がられた。伊丹は大事な文章なので間違いのないように、と訂正したつもりだったが、彼らはそれを屈辱と感じた。(本文P、64)

 着任から1年後の7月に大使館をやめて加州毎日に戻った。1937年3月23日帰米クラブの文学仲間の矢野君子と結婚。1938年5月6日長女道子が生まれる。

 日本時間1941年12月8日真珠湾攻撃。加州毎日の日米開戦の号外が輪転機で印刷している最中に、乗り込んできたFBIによって「発行は許可できない」と通告された。
 3日間のうちに日系社会のリーダーたち1370人が検挙された。戦争突入を予想して3年前からFBIはブラックリストを作成していた。第1次世界大戦でアメリカ兵として従軍した日系軍人まで逮捕された。
 日系全米市民協会は「我々アメリカ生まれの2世は、アメリカ合衆国に忠誠を尽くすことを誓う」という声明文を発表したが、一滴でも日本人の血が入っていれば隔離収容の対象となった。敵国となっているドイツ人23000人やイタリア人58000人は隔離されることは無かった。1942年6月5日には第1軍事区域から、8月7日には第2軍事区域から全ての日系人112000人の立ち退きが完了した。立ち退きを拒否する者は犯罪者と認める法令が発布された。

 3月23日伊丹は、マンザナに収容される第1回目の入所者となった。~一団は130台の自動車を連ねてパサディナのローズボールから、軍隊の警備の下に220マイルを10時間かけてマンザナまで大行進した。だが、到着した時にはバラック建てのマンザナ収容所は、まだ出来上がっていなかった。~
 ロスアンジェルスに住むほとんどの日系人は、パサディナにある「サンタアニタ集合センター」に送られたが、それはマンザナや他の収容所が完成するまでの一時的な集合所であった。サンタニタ集合所は、それまでサンタアニタ競馬場の厩舎として使用されていた馬小屋で簡易ベッドの代わりに馬用の藁が敷き詰められていた。~子供たちは「クサイクサイ」を連発し、馬の臭いや馬糞の臭いが身体に沁みこんだ。日系人には、馬並みの待遇しか与えられなかったのである。(本文P、111)
 (1988年当時のロナルド・レーガン大統領はこの日系人収容に関して謝罪し、「市民の自由法(通称日系米国人補償法)」に署名した。米政府は強制収容された日系人に補償金を支払ったうえ、日系人に対する差別をなくす教育基金を作った。小筆追記)

 その後伊丹はミネソタ州キャンプ・サベッジにある日本語語学校(Military Intelljgence Service)からの要請で二世兵士の為の語学教官としてマンザナを出た。伊丹は帰米でありながら、アメリカ側についたとして、一世や帰米二世から「イヌ」と呼ばれた。

 33歳になった伊丹は陸軍に入隊した。配属先は情報局だった。そこで伊丹は日独秘密通信を解読することになる。ある日、伊丹はヴィント・ヒルの受信基地に呼び出された。傍受した録音を聴くためであった。ドイツから送信されていることだけで、どこの国の言語か誰にも分からなかった。雑音のある録音盤を何回も聴いた伊丹の体は雷に打たれたように硬直した。その言葉は伊丹が小さい頃に覚えた「薩摩の言葉」「薩摩弁」だった。しかも、こともあろうに、その声の主は忘れもしない恩人の声ではないか!(その名は前の方にあり)

 薩摩語は関ヶ原の合戦で一敗地にまみれた薩摩藩が徳川幕府が放つ隠密を見破るために効果を発揮した言葉であった。薩摩語の原典は京言葉にあり、それを独特な言い回しに変えたと言われている。いずれにしても南海の孤陸である薩摩藩は長い間、他藩との交わりがなく言葉は進化しなかった。明治維新時に活躍した薩摩藩の西郷隆盛と、土佐藩の坂本竜馬、長州藩の桂小五郎は、最初はお互いの話し言葉が理解できず、文章と絵を描いてコミュニケーションを図ったといわれている。薩摩語は他藩のものにとって外国語と同じであった。~この頃日本とドイツの暗号電信はすべてアメリカに解読されており、それに気づいた日本の外務省は交信を電信ではなくて、国際電話にすることを試みた。(本文P、149)

 日本軍とドイツ軍の作戦を事前に察知できたことに、上層部が浮かれている間も伊丹の苦悩は深まり眠れない夜が続いた。そして、この情報が効を奏してノルマンディ上陸作戦が成功し伊丹はマスター・サージャント(曹長)に昇格しG2入り(陸軍参謀本部)も決まった。

 広島、長崎、への原子爆弾投下。そしてソ連軍の対日参戦満州進攻が始まった。1945年8月15日天皇の「無条件降伏」を受諾する「大東亜戦争終結ノ詔書」がラジオ放送で流され、このニュースは同盟通信から世界中に配信された。

 そして伊丹に陸軍情報部から占領下にある日本行きの命令が下された。軍事裁判に伴う「ランゲッチ・モニター」の任務を仰せ付けられた。言語モニターとは通訳をチェックし必要に応じて修正する職務である。
 これから行われる軍事裁判では、日本語と英語の二か国語が主言語となるため、英語から日本語への二世通訳の日本語力不足と、日本語から英語への日本人通訳の英語力不足が問題で、それを考慮した陸軍は、日本語と英語に堪能なモニターを選りすぐらねばならなかった。ジョン・アイソはこのセクションのチーフに伊丹を推薦していた。日本語の持つ微妙なニュアンスを汲み取るには、伊丹の日本語に対する抜群の理解力とそれを瞬時に英語に置きかえる能力を必要としていたからである。(本文P、205)
 伊丹はワシントンDCの陸軍戦時局情報部が1945年の9月2日までに得た、日本の統帥機関が発した公文命令書、皇室典範書類、規約条例、陸軍各研究所など、4000部にのぼる参考資料を25000に分類し、一つひとつに索引を付し、誰から聞かれても、また誰が閲覧してもすぐわかるように体系化した。陸軍情報部では分からないことがあれば「伊丹に聞け」というのが常だった。(本文P、221)

 1944年4月9日伊丹は「名誉除隊」することになり軍務をとかれて、勤務先はGHQではなく市ヶ谷の裁判所となった。軍属として軍服はそのまま着用しなければならなかった。給料は11号俸に跳ね上がった。GHQ給料体系は12段階に分かれていて、12号俸が一番上の給料とされていた。

 1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校の大講堂で極東国際軍事裁判が開廷した。A級戦犯と呼ばれる26人の被告の中に「平沼騏一郎」(当時枢密院議長 最高戦争指導会議<御前会議>でポツダム宣言の受諾にあたりキーマンとなった。小筆追記)がいた。伊丹がかって学籍を置いた大東文化学院総長で、入学式に見ただけであったが伊丹は遠くから目礼した。

 この見せしめのための裁判ではインド代表のラダ・ビノード・パール判事だけが国際法を習得していた。法の根源は国際法にあると明言していた。彼は判決後その不当性を唱えた。

 「戦争に勝った者が正しく、戦争に負けた者が不正であるということはない。戦いにおいて正しい者が勝ち、不正な者が負けるとも決まっていない。侵略戦争を仕掛けた者が勝つこともあれば、正しい者が負ける場合もある。勝敗は時の運で、正邪とはおのずから別である。裁判所条例といえども、国際法を超えることは許されない。欧米の裁判官諸氏は日本を裁く前に、遠くアジアの歴史に遡って、いかに欧米がインド、中国を含むアジア諸国を侵略して来たかを反省すべきである。従って全被告を無罪とし、全ての起訴事実から免除すべきである。裁く者の手も汚れている。原爆を落とし、無差別に殺戮した者たちも犯罪者として裁かれるべきだ」と戦勝国の犯罪も非難した。(本文P、388)
 パール判事は着任してすぐこの裁判の(国際法に基づかず、マッカーサーが作った事後法で裁かれる)不合理性を感じ、他の国の判事たちとの付き合いを一切断り、帝国ホテルの一室で、調査に取り掛かっていた。(本文P、248)

 東條英機の弁護は日本側の主席弁護士である清瀬一郎が引き受けアメリカ人ではブルーエット弁護士が担当した。
 清瀬弁護士は口述書の朗読の中で、この大戦は侵略ではなくアジア植民地の解放と独立を目指したものだったと訴えた。ブルーエット弁護士は口述書の最後の部分でこう結んだ。「国際法から見て、戦争が正しき戦争か否かという問題と、敗戦の責任問題は明らかに別個のことです。第一は外国間のことで国際法解釈の問題です。私はこの戦争が自衛のためであり、現在承認されている国際法には違反していないと、最後まで主張します。私は、この戦争行為が勝者によって国際犯罪として訴追され、合法的に任命された敗戦国の官史個人が国際法上の犯罪人として個別に告発され、条約の違反者として糾弾されるとはかって考えたことがありません」この口述書は内外で波紋を呼んだ。それほど、主権国家における「侵略」と「自衛」という概念は難しいものであった。(本文P、354)

 伊丹はあらゆる場面で審理をストップした。このため言語裁定官の上司モーア少佐とは何度か衝突した。モーア少佐は伊丹がストライクを押すたびにウイリアム・ウエッブ裁判長とキーナン主席検事の顔を窺いハラハラしたが、伊丹はそれにも拘わらず、通訳の小さなミスも見逃さず指摘した。アメリカ軍属でありながら、日本人被告を救いたいという気持ちがあったのを、自分でも気づいていた。せめて公平な裁判を受けさせたかったのだがモーア少佐に時々たしなめられた。(P、358)
 東京裁判の全ての審理が終わりあとは判決を待つのみとなった。

 かなりの量の判決文であったが、それでも一部でしかなかった。届けられた判決文は早速、各班に分けられた。翻訳班はにわかに忙しくなったが、伊丹はその中で、法廷であれほど通訳の訳し方が適切でないとストライクを押したにも拘わらず、全く変えられていない箇所を見つけ愕然とした。何のための訂正だったのか、と腹ただしくなり、GHQやアメリカ陸軍は日系人モニターや日本人通訳を信用していなかったのかと憤慨した。
 裁判である通訳が「aggression」を中国への「侵略」と訳したが、伊丹は「侵略」という言葉は適切でないと考えた。日本の大陸への侵入は、人民への略奪を目的にしたものではない。そこには北からの侵入に対する「自衛」の目的もあり、日露戦争が起きた原因もそこにあった。だが、ソ連の検事は、既に決着が付いている日露戦争まで遡り反論してきた。(本文P、377)
 通常の英語から日本語の翻訳とは違い、裁判の判決文は難解であり、英文で30万語、1211ページの長文であった。(本文P、377)

(判決)
 「キイチロウ・ヒラヌマ 終身刑に処する」伊丹は平沼騏一郎が絞首刑を免れたことに安堵したが「コーキー・ヒロタ。絞首刑に処する」とヘッドホンを通して聞こえてくるウエッブ裁判長の英語に「何故、何故なんだ!」と危うく口に出して叫んでしまうところであった。わざわざ通訳を変わってもらったハヤシの顔面は蒼白になっていた。(本文P、308)
 何よりも、伊丹が広田を死刑にしたくなかったのは、広田がワシントンに出向く途中、北加と南加の移民を訪れ、排日で苦しんでいる一世たちを励ましてくれたことだった。日本国の役人で、苦しんでいる移民を励ましてくれたのは、後にも先にも広田弘毅だけだった。伊丹の広田を思う気持ちは、この事実だけで充分だった。広田だけは死なせたくなかった。伊丹は詫びた。ひたすら広田に詫びた。(本文P、384)広田弘毅夫人静子(62歳)は巣鴨での面会の後、5月18日自宅で薬物自殺をした。(本文P、244)
 伊丹は言語裁定官のモーア大佐や言語部の上司プラットン大佐と口論までしながら広田に被せられた「軍事参議官」というタイトルを外すように法廷で何度も抗議した。軍事参議官は陸海空の大将に限る職で、文官の広田が担う職ではなかった。(本文P、386)

 刑の宣告は25人の被告全員に有罪が言い渡され死刑7人、終身刑16人、有期刑2人とニュールンベルグ裁判以上の過酷な判決になった。
~ラジオから聞こえてくる刑の宣告に耳を傾けていた勝子夫人と二人の娘はウエッブ裁判長の「東條を絞首刑に処する」という宣告を聞くと肩を寄せ合って泣いた。(本文P、385)

 3年に渡る長かった裁判が終わった。失意の伊丹は家族と京都旅行に出かけ、その足で一人でヒロシマ、長崎に行って惨状を目にした。朝鮮半島がキナ臭くなると、伊丹はGHQ憲兵司令部から取り調べを受け「アメリカの国益を損なう者は何人といえども容赦なく対処する」と言われた。二度目の呼び出しで詰問されたのは「どうして東京裁判を批判するのか、裁判は連合軍の代表が決めたものであり、判決が決まった以上、それに従うのが国際法だ」と言われた。これに対し伊丹は「国家と国家の戦争にて、どうして個人の罪が問われるのか。日本が戦争に突入した罪は日本国民によって裁かれるべきだ」と反論した。また「原爆投下」に関して「貴方たちは広島と長崎の現状を見たことがあるか?」と問い、また「貴方たちが、広島と長崎を見てどう思うかも聞かせてほしい」と反論した。そして「原爆投下は、日本人を実験台にしたのではないのか!」と問い詰めると流石の憲兵将校も押し黙ってしまった。将校は「ミスター・イタミ。気持ちは分かるが、アメリカ人である以上、アメリカの国益に反してはならないのです」と語気が弱くなった。(本文P、433)

 伊丹はクリスマスイブに憲兵部から再度呼び出しを受けたがそれを無視した。そして39年間の波乱万丈の人生に自らコルト38で終止符を打ったのだ。

1950年12月24日死去した伊丹の葬儀にGHQ最高司令官のマッカーサー元帥も参列した。マッカーサーは23日に頼みとしていた最前線の司令官ウォーカー中尉を失い、朝鮮半島の戦局は中国軍の介入で38度線まで押し戻されていた。~伊丹の遺体は、日本から空軍機でサンフランシスコの空軍基地に送られ、そこから別機でロスアンジェルスに送られた。これは「リージョン・オブ・メリット勲章」を与えた伊丹へのアメリカ軍の最高の償いであった。(本文P、449)
 
 
 

  • 大作・力作の投稿を有難うございました。改めてゆっくり読ませていただきます。 -- 昼寝ネコ 2015-04-16 (木) 11:37:26
  • 昼寝ネコさま
    先の戦争で天皇制を救い、日本国体護持に献身した歴史上の人物伊丹明が
    市井の人々に知られていなかったのは、長年にわたる遺族の取材拒否があったからだそうです。著者スティーブ・鮫島氏は奇しくも伊丹明の出身校である鹿児島県旧制加治木中学(現在、鹿児島県立加治木高校)の後輩だったのです。

    彼は10年に渡る取材を伊丹明の妻である「君子」に行い、数多くの資料や写真、伊丹自身の手記を入手して、生存していた重要な人物にも会うことが出来ました。

    尚、スティーブ・鮫島氏は内村鑑三(1860-1930)が「代表的日本人」の一人として英文で出版した江戸中期の米沢藩主「上杉鷹山」を再度英字出版しました。上杉鷹山は第35代ケネディ大統領が唯一尊敬した日本人と言われています。 -- 岸野みさを 2015-04-16 (木) 15:12:33

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