穀粒(こくつぶ)会員のための、創作および出版支援サイト

15051502歩く人

トップページへ 譜面台の練習曲メニューへ 画像の説明
2015.05.15 旅行記・紀行文「鎌倉幕府興亡の戦い 分倍河原合戦」 投稿者:歩く人

鎌倉幕府興亡の戦い 分倍河原合戦〜府中ワード地域物語シリーズ
 
歩く人
 
 私が住んでいる東京都府中市。京王線分倍河原駅傍のロータリーに新田義貞像がある。以下は銅像の説明碑より抜粋です。
 新田義貞像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。

 元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社(群馬県太田市)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合(きゅうごう)、翌9日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原(埼玉県所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(埼玉県狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍(がらん)は灰燼(かいじん)に帰してしまったといわれている。その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒涛の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。

 日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。

■新田川遊歩道
 合戦の勝利者・義貞の姓から名付けた新田川、北側は府中の高台が続いており、昔日の多摩川は高台の裾が流路だったと伝わっている。現在の新田川は大部分が暗渠となり、分倍河原古戦場の付近は緑地帯となって遊歩道も整備された。
画像の説明
 
■分倍河原古戦場碑
 昭和10年(1935)、鎌倉街道沿いに建造され、その後昭和63年(1988)に新田川遊歩道に移された。
画像の説明
 
画像の説明
 
 

  • 作品の投稿を有難うございます。貴重な資料・史料ですね。 -- 昼寝ネコ 2015-05-15 (金) 19:30:20
  • 歩く人さま
    その時代を走り抜けた人々の記録は感慨深いですね。古は古戦場でも今日はのどかで閑静な遊歩道、散策する人々は何を思うでしょうか? -- パシリーヌ 2015-05-15 (金) 20:13:37
  • 紀行文というよりも少し詳しいパンフレットですね。 -- あやな 2017-07-29 (土) 07:15:23

認証コード(6484)

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional