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15100902 徳沢 愛子

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2015.10.09 エッセイ「戦後70年に寄せてー人よ・故郷よ・国よ」投稿者:徳沢 愛子

 私の家から霊魂の降りてくるような美しい聖所石川護国神社まで車で七分。そこの参集殿の中に遺品展示室がある。石川県では戦没者数三万八百十八名、金沢では六千八百四十三名、所狭しと並んだ英霊達の写真。彼らは呆然と佇む私をみつめて笑顔を見せる。男児ばかり五人生み育ててきた私は、胸を突き上げてくる激情を抑えることができない。
 そうした感動を味わった後のある日、私は図書ボランティアとして地域の中学校へ行き地元戦争詩人と言われている浜口国雄の詩を思いをこめて朗読したことがある。「勲章」という作品である。「おばあさんは僕の手さすり泣くのである/八十歳のやせた指の骨の先からおばあさんの嗚咽が僕の心臓に流れ込むのである∥今日は命日である/花田一等兵の命日である/暗い仏壇の中軍服姿の花田一等兵がローソクの光に浮き出され笑っている∥花田一等兵の死亡を確認したのは僕である/太陽に死体さらし野垂れ死にしていたのである/腹紫色に膨張させ目鼻耳肛門に蛆わかし腐敗していったのである∥花田一等兵が息絶え二十年になるが今日もパプア島ヤカチの地にむくろ晒し風化続けているのである/勲八等旭日章おばあさんの手に残し燐火燃やし風化続けているのである∥おばあさんは泣くのである/仏壇に飾った勲八等旭日章畳にたたきつけ僕の手強くさすり泣くのである/声あげ泣くのである」読み終ると同時に拍手が起こった。いつもは拍手しない。母親の深い悲しみと愛が、戦争経験のない中学生をも感動させたのであろう。愛は絶えることなく生き続ける。前置きが長くなった。
 「凛として愛」を観た。聴いた。感じた。辛うじて生き残った人達の鬼気迫る証言と思い。遺族達の哀切な証言と思い。涙なしには観られず、聴けず、感じられなかった。出征していった彼らはただひたすら家族を愛し、ただひたすら故郷を愛し、ただひたすら日本国を愛し守りたかったのだ。ただただこの一念であった。「靖国で会おう!!」これは命をかけて国を守ろうとする彼らの切ない合言葉でなかったのか。昔鹿児島の知覧で戦争記念館を訪れたことがある。彼らの手紙や写真や遺品から立ち昇る香気のようなものに圧倒され涙でぐちゃぐちゃ顔になって館を出て、見上げた夏空のなんと美しかったことか。当地から特攻隊の一員として飛び立ち、万感の思いで引き返し開聞岳の上空を二度三度旋回し、眉上げ死地へ赴いていった若者もいたと聞く。
 何という悲惨な、一方ある意味においては何という素晴らしい生き様であったか。天皇陛下のもと、日本国中が一つになったあの時代は、ぬるま湯に浸かったような平和な現代に今も警鐘を鳴らし続ける。私達も今一つにならなければならない。この勇敢な生き様を見せて天に還って逝かれた英霊の方々に対して、私達もまた日本の真実の歴史を胸に深く刻みよりよい生き方を日々選択していかねばならない。私達は今何を考え、何を目指し、何を行動に移していくべきか、戦後七十年という節目に立って一考するべき時に来ている。それが日本をこよなく愛した英霊に対する礼儀であろう。私も人を愛し 故郷を愛し国を愛する人でありたい。

  • 徳沢愛子さま
    「私達もまた日本の真実の歴史を胸に深く刻み、よりよい生き方を日々選択していかねばならない。」ご投稿ありがとうございました。私も同じように、一人でも多くの、日本人の心の奥にある大和民族の魂に、この英霊たちの慟哭が届くように、切なる祈りを主に願い求めます。 -- 岸野みさを 2015-10-10 (土) 20:18:08
  • 先人たちから受け継ぐべきものは、「国體護持」の精神であります。 -- アイスココア 2015-10-15 (木) 16:34:52

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