17022503徳沢愛子
2017.02.25 エッセイ「私は私」 投稿者:徳沢愛子
佐々木涼子氏の講演を聞く
昨春七尾市に郷土の作家「杉森久英記念文庫」が設立された。その立役者小林良子氏を通じて、10月8日再び金沢に娘である佐々木涼子氏の講演の機会を得た。会場には幅広い年齢層の方々が会場いっぱいに参集された。佐々木氏はフランス文学者であり、舞踊評論家であり、大学教授でもある。その厳めしい肩書に似合わずフランクで、現役のバレリーナのような、崖の上の水仙のような方であった。彼女は『失われた時を求めて』の作家であるマルセル・プルースト研究家として、父親と似て非なる独自の道を爽やかに歩んでおられる。講演の冒頭で「私は父の作品を読んでいないです」と言われ、私は「おっ」と声が出そうになった。父杉森久英と娘、そして私と息子の場合もまた、私の詩など一顧だにしない。コメントなどとんでもない。よく考えてみればそれは父親や母親の作品を否定している訳でもなく、親の心血を注いだ作品に対しての一つの畏怖、浸し難い聖域に入りたくないという単純な心情ではないのか。子供が持つ気恥ずかしさといったものか。父杉森久英の作品評は殆どなくて、ほどよい距離感で温かな父親との日常を彷彿とさせる話を少しされた。父親から確かに継承した一途な生き様、マルセル・プルースト研究者として影響を受けた生き様、その二本立てで彼女の精神世界は成り立っている。父親の創作の信条は、その対象に対して徹底的に調べ、目と耳と、足を駆使して納得するまで、その基本に忠実であったように、娘もまた舞踊という肉体を通して多くを体得され、親から頂いたものの上に、自らの努力で自らを深めていかれたと思う。講演も殆ど彼女の学びの周辺について話された。私としてはもっと、父杉森久英との繋がりに切り込んで欲しかった。文学上は淡白な関係なのかもしれないと思う。彼女は本当に内部から滲み出る美しさを持ち、「天は二物を与えず」という諺は真実ではない、と私は結論づけるに至ったのである。
- 「崖の上の水仙のような方」なんという美しい表現でしょうか。どんな画像よりも読者の
想像力を刺激する言葉の秘密のパワーです。 -- 岸野みさを 2017-02-26 (日) 23:00:06