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18051201岸野みさを

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2018.05.12 穀粒記者レポート・『推薦著書 アメリカ各地で脚色されて語られている 慰安婦問題 ワイルス蓉子著』投稿者:岸野みさを

アメリカ各地で脚色されて語られている「慰安婦問題」歴史の生き証人は訴える

目次

プロローグ                            8

日韓の歴史を振りかえる                       14
アメリカの新聞に掲載され続けられている「慰安婦」の記事 
何故に真相が曲げて語られているかに驚愕               21

日韓基本条約は締結したけれど 執拗に続けられている賠償請求     29

〔慰安婦〕外交の勝利―日韓外相会議で補償について合意        37

米国議会の聴聞会における驚くべき元慰安婦たちの証言
     彼女たちは歴史の生き証人というけれど          51

我が国の品位を貶めようとする
     曲げられた歴史的事実は正さなければならない       76

歴史の真実を曲げて伝える
     一部の在米韓国人の悪辣な中傷              82

日本の国連への分担金は世界二位
     金を出したら言わせてもらおう             101

エピローグ                           112

米国議会の聴聞会における驚くべき元慰安婦たちの証言
     彼女たちは歴史の生き証人というけれど      

「米国議会の聴聞会で韓国・オランダ人女性3人が証言」という韓国の中央日報紙に
掲載された記事が、“なでしこアクション”から送られてきた。“なでしこアクション”は、2011年に戦時中に韓国人女性が慰安婦として、日本軍に強制連行・性奴隷にされたという、所謂「従軍慰安婦問題」は事実無根の歪曲だと訴え「慰安婦問題を私たちの世代で終わらせよう」という趣旨で結成された女性による非営利団体である。
勿論、戦後の良識派と称する学者、ことに進歩的な女性運動家からは、「歴史を修正しようとしている保守派の団体」として批判されている。代表者の山本優美子氏は以下のように述べていらっしゃる。
「私達は慰安婦の存在を否定しているのではありません。問題は慰安婦が誤解されて世界中に広まっていることです。慰安婦は雇用され、自由もありました。ところが海外では日本軍が拉致して強制的に性奴隷にされた10数万人の10代の少女たちと信じられていることです。昨年末の日韓合意で、外交上では慰安婦問題は最終的、かつ不可逆的に解決されたと言われていますが、慰安婦イコール性奴隷はそのままで、日韓合意に反発する慰安婦団体の反日活動はさらに激しくなっています。」

また、今年2月、スイスのジュネーブの国連欧州本部で、女性差別撤廃委員会が慰安婦問題を取り上げた。これには「慰安婦、すなわち性奴隷」と主張する日本の女性団体からも100名が出席した。そして、日本政府代表の杉山外務審議官は、以下のように発言した。

「日本政府が発見した資料には、強制連行を確認できるものはない。吉田清治氏の慰安婦狩りの捏造本を朝日新聞が報じて、国際社会に大きな影響を与えた。慰安婦20万人の裏付けがない。性奴隷の表現は事実に反する。」

 日本政府が慰安婦問題に関して、これだけはっきりと発言したのは初めてである。「事実関係を明確にすることは、相手を非難することではなく、誤解をとくことです」と、山本優美子氏は述べていらっしゃる。

 国連の人権問題委員会で、平然と誇張し捏造した話を述べる元慰安婦のおばあさんたちには呆れるばかりである。しかし、急に脚光を浴びて舞い上がり平然と辻褄の合わない話を国際的な場で述べているおばあさんたちの話を、私のような市井の一老婆と違って戦後の高等教育を受けた女性の中にも信じ切っている人がいるのには、もっと呆れている。
 この中央日報紙の記事によれば、2007年12月15日の午後、米国議会下院の外務委員会アジア太平洋・環境小委員会が米国史上初めて開いた「慰安婦聴聞会」で、2人の元韓国慰安婦と1人のオランダ人女性が、日本軍の慰安婦として連行されて受けた恥辱を生々しく語ったとのことである。200席をぎっしり埋めた傍聴客は3時間以上続いた証言を粛然とした雰囲気で傾聴したとのことである。議会の公聴会や聴聞会で証言する場合は、どの国籍であろうと右手を挙げて宣誓させられる。彼女たちも勿論、“I swear that the evidence that I shall give will be the truth, the whole truth and nothing but truth”(真実を、全ての真実を、そして真実以外の何も述べないことを誓います)と、宣誓させられたうえでの証言であろうと思う。そして、戦後オランダの植民地のジャワ島(現在のインドネシア)の捕虜収容所で、オランダ人女性が強制的に兵士の性の相手をさせられたのは事実であり、多くの将校や兵士が戦後Bクラス戦犯として死刑に処せられている。また、韓国の慰安婦に対しては、日本政府は村山総理が1人300万円から400万円の補償金と謝罪文を送った。しかし、2人の元慰安婦は聴聞会で日本政府から謝罪文や補償金は受け取ったとは一言も述べなかった。それでは、彼女たちの手には日本政府からの補償金は渡らなかったらしい。以下は2人の韓国人女性の、米国下院の外交委員会アジア小委員会における証言である。

李容沫さんの証言
 「1944年、13歳の時に台湾に慰安婦として連行され、3年間にわたって性的に日本軍兵士にもてあそばれた。2階建ての日本軍の慰安所で一日平均4人から5人の兵士に強姦され、お粥で生き延び、何かあるとすぐに暴行されるなど、犬や豚よりもひどい生活だった。日本軍によって“トシコ”と名付けられ、性行為を拒否して電気拷問を受け、韓国語を話すとひどく殴られた。父は鬱病で中風になり、その年に亡くなった。日本政府は謝罪したと主張するが、1度も謝罪を受けたことがない。世界の性的暴行を根絶するためにも、日本は必ず謝罪しなければならない。」

金君子さんの証言
 「1944年、16歳の時に中国に連行された。1日平均20人、多い時は40人の日本兵を相手に地獄のような生活を送った。日本兵士は小さな刃物で私の体を少しずつ切りつけたり、服を激しく破りコンドームも使わずに跳びかかってきた。いっそのこと死んでしまおうと何度も自殺を図ったが、日本軍が見張っていて、そういう機会もなかった。1945年8月の終戦で、日本人が『出て行け』と言ったので、同僚8人と畑の白菜を取って食べ、1ヵ月以上も歩いて家に帰った。慰安所に到着した初日に抵抗して殴られ、左耳の鼓膜がやぶれた。体にも多くの傷が残っている。」
 
 この聴聞会で、日系3世のマイク・ホンダ議員(民主党)は、「今我々が行動に出なければ、日本政府の謝罪を引き出す歴史的機会を失ってしまう」と決議案の採択を促した。しかし、ローラ・バーシャル議員(共和党)は、「日本はすでに何度も謝罪している。そういう文書を受け取っている。前世代の過ちで、日本の現世代が処罰を受けてはならない」と主張した。そして、この小委員会の聴聞会を進行したエニ・ファレオマバエガ議員(民主党、サモア選出)は「今日の聴聞会で日本軍の蛮行実態が暴露され、日本政府の謝罪・釈明が偽りであることが明らかになったので、今後決議採決に前向きに作用するだろう」と述べ、慰安婦の痛みを理解するという立場を見せた。加藤良三駐米日本大使はこの日、アジア太平洋小委員会に書簡を送り「日本はすでに慰安婦問題の責任を認め、韓国やフィリピン、台湾、インドネシアなど、慰安婦被害者に補償もした」と述べて、議案採択を阻止する意向を明確にした。

 この聴聞会に関する記事を、当時私はアメリカの新聞で読んだことがなかった。私は、ポトマック通信を書くために、ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ウォールストリート・ジャーナル紙、USA Today紙の4紙を毎日読み、時にはロサンゼルス・タイムズ紙やボストン・グローブ紙も読んでいる。しかし、2007年12月頃に、この聴聞会の記録を読んだ記憶がない。九年後に読んで、聴聞会で証言を述べるときに、宣誓させられなかったのかと、韓国女性2人の証言の「大嘘」にただただ唖然とするばかりである。

 彼女たちの証言の「大嘘」を、1つ1つ明記していくことにする。先ず、李容沫さんの証言であるが、「1944年、13歳の時に台湾に連行されて、慰安所で3年間働かされた」と述べている。しかし、戦争は1945年8月15日に、日本が降伏して戦争は終わったのである。
 そして、日本の植民地だった台湾からは、全ての日本人(兵士も含めて)は、財産を没収され、日本に引き揚げなければならなかった。台湾に兵士専用の慰安所はなかった。だから、彼女は娼妓として台湾の娼家に女衒によって連れていかれたのであろう。そして、日本の敗戦によって、台湾は中国に帰属となり、蔣介石総統の率いる国民軍が台湾に乗り込んできた。そして、1945年10月に大陸から移ってきた陳儀行政長官によって、大陸系中国人が台湾の行政を握るようになった。そして、台湾の中国による接収が現実化するにつき、日本人を早く本国に帰還させようと考え始めた。そこで、最初に軍人・軍属を優先的に幅員させた。その後、1945年12月21日から民間人の日本送還を開始した。そして、1946年2月21日から、同年4月29日の2ヶ月間で、28万4150人もの日本人を日本に送還したのである。この事実から見ても、李容沫さんが1944年から、3年間も台湾の日本兵士の慰安所で働かされたというのは、全く時系列にあわない証言であることがわかる。(この証言について、アメリカに住む友人から、李容沫さんは、3年間働かされたと言っていたのを、最近になって1年間と訂正していると知らせてきた。)
 また、日清戦争後の馬関条約に基づき台湾が日本の領土になったのは1895年である。1919年8月20日に台湾総督に文官を任命できるようになったので、台湾に駐留していた日本軍は総督府から分離して台湾軍となり初代司令官に明石元二郎大将を任命した。勿論、軍規は日本内地の軍隊と同じであったから、兵士専用の慰安所がなかったのは言うまでもない。

 また、中国に連行されたという金君子さんの証言であるが、まるで日本軍が慰安所を経営していたように語っているが、中国で慰安所を経営していたのは、軍に委託された業者であった。業者にとってそこで働く女性は商品であるから、日本兵が慰安所で慰安婦を傷つけるようなことをすれば、ただちに憲兵隊に通告されたことであろう。
日本軍の規約を読むと、日本の内地では、兵隊は日曜日にしか外出が許されなかった。そして外出希望者は外出後の行く先と外出の目的を記入して班長に提出し、外出証の交付を受けるのである。試しに外出簿を見ると、市内見物、後楽園、映画館、図書館、親類訪問などで、カフェーとか遊郭の字は見当たらない。しかし、どの遊郭も日曜日は兵隊の外出日とあって朝から店を開けていた。時々憲兵が入り口付近の電柱の陰に隠れている。それは、兵隊がゴム製品を所持しているか抜き打ち検査するためであった。万一所持していなかったら、その場で外出取り消しになった。当時は、現在のように性病に対する特効薬がなかった。ことに梅毒に罹れば一生廃人になるから、日本軍は兵士が性病に罹ることを厳しく警戒していた。もし、最悪の性病にかかり、即時除隊となれば、出身地の役所にその旨を通知されるという屈辱的措置をとられた。

 映画監督の小津安二郎氏は招集されて、軍曹に昇進し中国に送られた。
小津氏は戦後中国の慰安所について以下のように記述している。
  「これが押すな押すなの大繁盛であるが、猛り狂う意馬心猿も、さらによほどの酩酊力を借りなくては、うかうかと近寄りがたい半島の舞姫たちである。」

 この記述を読めば、韓国政府が主張するように、無垢な少女を連れ出して、強制的に兵士の相手をさせたというのは、全くの作り話であることがわかる。
 その慰安所の入り口に貼りだされてあった「心得」に、小津軍曹はことのほか興味を覚えたとみえて、手帖に写し取っている。
不注意のため花柳病に感染したる者は、出身地の市町村に通報する。
次期作戦準備のため、戦力の保持上、如何なる梅毒地帯をも突貫し得るごとく、防具の装着を確実にすべし。以下省略。」
これを読んでもわかる通り、日本軍は、兵隊が性病に罹ることを非常に危惧し、罹ったものに対しては、実に不名誉な処罰を与えた。そして、慰安婦に対しても、厳しい検査が定期的に行われた。そして、性病に罹った兵士を出した婦家は厳しい罰則をうけた。14、5歳の少女を朝鮮の田舎から連れ出して性病検査もせず、拷問にかけて兵士の相手をさせるというようなことは、到底あり得なかったことである。彼女たちは慰安所の経営者にとっては商品なのである。どうして彼女たちを傷つけるようなことをするであろうか。小津安二郎氏のような事実の生き証人が全て鬼籍に移った70年後に、「元慰安婦」を国際政治の場に持ち出して証言させるとは、彼女たちの背後でそそのかして日本を卑しめ、金を出させようと意図する勢力があるとしか思われない。彼らたちのやり方は本当に卑劣だと思う。そして、元慰安婦と称する女性を聴聞会に招いて、彼女たちの証言だけで、事実の裏付けもなく日本に対する「制裁決議案」を可決するとは、アメリカの議会の品位と信用を問われる問題であると思う。
日本人の中にも、これらの元慰安婦の証言内容を信ずる人がおり、「歴史の書き換えを憂慮している」というのには、本当に情けない思いである。歴史の証言者はまだ生きているのである。

 そして、最近なでしこアクションから、国連の人権委員会の発表したクマラスワミ報告のなかの、元慰安婦の証言の写しが送られてきた。この中の慰安婦の証言は、先にアメリカ議会で行った証言よりもさらにひどい。この証言の内容のひどさは、書くとさえ憚られるくらいである。しかし、実際にかかる証言が国際的の場で語られて、日本の名誉が傷つけられていることに、全く無関心かまたはこの証言を真実と信じている日本人がいるから取り上げることにする。

 先ず、クマラスワミ報告とは、国連人権委員会の決議に基づいて提出された女性に対する暴力と、その原因及び結果に関する報告書である。「クマラスワミ報告」は国連人権委員会に任命された特別報告者であるスリ・ランカ出身のラディカ・クマラスワミ(Coomaraswamy)氏が、現在世界各地で行っている女性問題について特別委員会に提出する報告書である。そして、韓国の市民団体からの「被害者は現在も生存している」という強い働きかけを受けて、「慰安婦問題」が調査され、大韓民国と日本への訪問調査に基づく報告書が国連人権理事会に提出された。
 そして、クマラスワミ氏自身も韓国と日本を訪れて政府関係者や元慰安婦とも会って報告書を提出しているが、報告書には慰安婦について数多い事実誤認や歪曲が指摘されているとのことである。

 これらの元慰安婦の証言は読むのもつらいが、「慰安婦問題」に全く無関心か、または彼女たちの証言を頭から信じている人に真相を伝えるためと、このような誇大証言によって我が国が国際政治の場で如何に卑しめられているかを知らせるために書くことにする。
 チョン・オクスン(当時74歳)の証言(フォーラム穀粒紙面では割愛)
 ファン・ソギョン(当時77歳)の証言(フォーラム穀粒紙面では割愛)

そして、このクマラスワミ報告は、「上記の事に鑑みて、1996年の調査訪問は、第二次世界大戦終結50周年にもあたり、とりわけ意義のある調査旅行になるであろうし、戦時中の軍隊の性奴隷に関する未処理の問題を解決するとともに、生き残っている少数の暴力被害を受けた女性の苦しみに終止符を打つ一助となると考える」と結んだ。

 1915年12月24日に、日本陸軍は、日本内地と同じように第19師団と第20師団を日本統治下の朝鮮半島に設置した。第19師団は朝鮮半島の北部の咸鏡北道の羅南で編成され、歩兵四個連隊が所属していた。これらの連隊の規律は、日本内地の連隊と同じで、兵士は日曜にしか外出を許されてなかったし、勿論兵士専用の慰安所もなかった。1944年12月から、南方の戦線がアメリカ軍に押され出したので、師団は第14方面軍令下に移り、これらの連隊はフィリピン・ルソン島に送られてアメリカ軍と交戦し、山岳地帯で持久戦を行っている最中に終戦を迎えた。終戦後ただちに、日本軍隊は解体されたので、これらの連隊の兵士も日本の本土に送還された。

 特筆しなければならないことは、日本軍の将校が軍刀を吊りだしたのは、1937年に日中戦争が起こってしばらくしてからで、それ以前は指揮刀と称するサーベルを吊っていた。サーベルでは人間の首を切ることはできなかった。そして、全ての将校が軍刀を吊るようになったので、大量生産の日本刀が製造されたが、人を2、3人も切れば刃がかけてしまうような「なまくら刀」であった。戦場ではもっぱらサーベルと同じように指揮刀として使われた。それから、兵士が吊っていたのはごぼう剣とよばれる細い30センチくらいの長さの刀で、これを銃の先につけて敵を刺し殺すというものであった。ごぼう剣は鉛筆削りに使われても、人間の首は切れない。また、下士官は曹長に進級すると、准士官としてサーベルを吊るせるようになった。この当時の軍人の軍刀に関する証言は、1930年生まれの軍人の娘、即ち私の証言である。
1936年に、日本兵士が刀で韓国女性の首を切ったということは、起こりえないことである。私は中国の東北部、即ち満州に住んだ経験もある。
 チョン・オクスンさんは1920年生まれであるから、13歳の時に日本兵の守備兵に襲われて拉致されたのは1933年である。日本陸軍が朝鮮半島に、日本内地と同じような師団を設置してから13年後のことである。朝鮮半島における日本軍の軍律も内地におけるのと同様であった。勿論兵士専用の慰安所はなかった。日本兵が女の子を拉致して、反抗したからと首をはねるなどとは、到底あり得ないことである。そのようなことをすれば、ただちに軍法会議にかけられたことであろう。1933年には、首をはねられるような軍刀を将校も下士官も吊っていなかったのは前述した通りである。韓国女性の首を刎ねたのは、本当に日本の兵士だったのだろうか。事実を確認すればするほど、話の信憑性を疑わざるを得ない。

 また、ファン・ソギョンさんは中国の牡丹江市に連れて行かれたとのことであるが、当時の牡丹江市は満州国黒滝江省東部に位置する都市で、1937年に中国東北部に満州国が建国されたころから、日本国内の様々な会社が木材加工・化学工業・食品などの工場を進出させたので、一大工業都市として人口は急増した。従って日本の関東軍の司令部も置かれてあったが、中国のような占領地ではないので、勿論兵隊専用の慰安所はなかった。ちなみに私の弟は1943年から1年間、牡丹江の星輝中学に通った。当時、牡丹江には朝鮮人が経営する娼家が多かった。ファン・ソギョンさんが連れて行かれたのは、明らかに朝鮮人が経営する娼家に違いない。兎も角、クマラスワミ報告にも述べられてある通り「慰安婦問題に関しては事実の誤認や誇大が数多くみられる」と、国連人権理事会でも認めている。

 私は国連のクマラスワミ報告書のなかの元慰安婦の証言が、あまりにも事実と異なっていることに呆れて日本統治下の朝鮮の公娼制度について、ウィキペディアで調べてみた。これを読むと、14~5歳の女性を強制連行して兵士の性奴隷にするということは、全く起こり得ないことが分かる。以下は当時の公娼制度についての記述である。

 「1910年の韓国併合以降は、娼婦営業の取り締まりが強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第四号が公布、朝鮮全土で公娼制度が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに、年齢制限が日本内地より一歳低い17歳に設定された。」
また当時、10代の少女が誘拐される事件が頻発したことも以下のように書かれてある。

 「1930年代の朝鮮では、10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝や誘拐で少女を路上で捉えて売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1937年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買や少女誘拐事件については、警察の発表などを受けて、朝鮮の主要新聞でたびたび報道された。朝鮮総督府統計年報によると略取・誘拐で検挙された数は、朝鮮人は2,482人、日本人は24人である。」

 そして、東亜日報や毎日新報のような主要紙に、たびたび誘拐事件が掲載されていたとのことである。例えばチョン・オクスンさんが誘拐されたのは1933年である。この年の6月30日の東亜日報には、少女を路上で誘拐し中国に売却していた男がソウル市鐘路警察によって逮捕されたことを報じている。さらに誘拐された少女が35歳の干浜海に20ウォンで売却された後に殺害されたことを報じている。また1935年3月15日の東亜日報では「貧窮を弄ぶ悪魔!農村で人肉商跳梁、就職を餌に処女を誘い出す」の見出しで、ソウル近郊の農村で「人身売買」業者が処女を誘拐していることが報道されている。当時の朝鮮半島で行われた人身売買が、全て日本軍がしたことになって、国連で証言されているのには、ただ呆れるよりほかはない。そして、強制連行も含めて慰安婦の証言を全て真実と信じている日本の有識者といわれる人たちに、もう一度あらゆる資料を検討して意見を述べていただきたいと懇願する。

 それにしても、韓国元慰安婦の証言のでたらめには呆れるが、70年前までの日本や朝鮮で、貧家に生まれた女子は本当に可哀想だったと思う。女性の社会的地位が低く、貧家に生まれた女子は、家族の犠牲になるのが当然という風潮の中で、娼家に売られる女子も多かった。私は、これらの二人の証言者よりも、彼女たちを国連の場に連れ出して、こういうことを言わせる人たちを許せない。古今東西を通じて、戦場になった国で、兵士による婦女子に対する暴行がつきものであったことは事実で、それだけでも決して戦争を起こしてはならないと思っている。しかし、戦後70年も経ち、謝罪文も送り賠償も払っているのに、国際的な場に連れ出して、このような証言をさせることは、その国の品位を問われても仕方がないと思う。

 そして私が最も遺憾と思うのは、このような慰安婦による誇大証言が、国連人権委員会のような国際的な公の場で語られ、日本の名誉をいたく傷つけられていることに対して、多くの日本人は全く無関心か、知らされていないことである。そして殊更に許せないのは、これらの事実の誤認や脚色された証言を真実と信じて書きたてている日本人がいることである。

 昨年12月3日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム欄」に「首相は元慰安婦に手紙を書いて」という投書が掲載された。投書者は静岡県にお住まい69歳の竹野昇氏である。(あえて本名を出させて頂く。)竹野氏は元慰安婦らが暮らす「ナヌムの家」を3回訪問していらっしゃる。「存命中にお詫びしなければ、彼女たちが受けた苦痛や苦しみ、怒りを和らげることはできない。安部首相に心のこもった『お詫びの手紙』を書くことを求める。「彼も明らかに、慰安婦は強制連行され、日本兵士の性の奴隷にされたと信じている一人であろう。この投書の主は、村山総理と河野官房長官の二人の大臣が過去に謝罪文を送っていることも、10億円を過去に1回、そして、一昨年末の日韓協議で、再び10億円を払うことが締結されたことを、ご存知ないであろうか。2007年に米国議会下院の外務委員会のアジア・太平洋環境小委員会で開かれた「韓国人慰安婦」に関する聴聞会で、ローラ・バーシャル議員(共和党)は、「日本の前世代の過ちで、現世代が処罰を受けてはならない」と述べているではないか。現世代の安倍首相は謝罪文を送る必要はない。そして、竹野氏のような方がいらっしゃるかぎり、我々戦中派も声を上げていかなければ事実は正しく伝えられないと思っている。

 歴史の真実を曲げて伝える
   一部の在米韓国人の悪辣な中傷

 次に、1月22日の慰安婦問題と取り組んでいる「なでしこアクション」からのメールによれば、2月6日にサンフランシスコ市の芸術委員会で、サンフランシスコ慰安婦碑設置承認が予定されているとのことである。そして、これまでのサンフランシスコにおける慰安婦碑に関する経緯がのべられている。サンフランシスコ市当局は如何なる理由で、「韓国慰安婦像」の設置を許可したのであろうか。許可した経緯は以下の通りである。

 2015年夏に中国系の市民が慰安婦碑設置決議を通すために市議会に決議案を提出した。そして、中国統一促進会のメンバーでもあるサンフランシスコ慰安婦碑設置の会は、韓国系団体に協力を依頼した。そして、9月に慰安婦碑設置決議が市議会で満場一致で可決した。さらに、2016年7月、カリフォルニア州の学校の歴史科目で、慰安婦についての記述を挿入することを決定した。さらに、11月にサンフランシスコ市のビジュアルアート委員会で慰安婦碑のデザインが承認された。さらに、今年1月に、慰安婦碑の碑文が同委員会で承認された。一月の碑文承認の会議では、慰安婦推進派の中華系に要請されたであろうマイク・ホンダ前下院議員を始めとする日系人の碑設置推進派もスピーチをしたとのことである。この慰安婦像は、10代の少女3人が手をつないで柱の上に立っているのを、母親の年配と見られる女性が見上げている等身大の像である。この碑文がサンフランシスコの慰安婦碑承認の会儀で承認されたと言うことは、中華系と韓国系の住民と日系人の慰安婦碑設置推進派が、アジアの歴史に全く無知であり、ただただ日本を卑しめる目的をもって建立しようとしていることを如実に示していると思う。以下は元慰安婦と、「慰安婦を支持する正義連合」による碑文である。

 「私たちが1番恐れていることは、第二次世界大戦中の私たちの苦痛に満ちた歴史が忘れさられることである。」元慰安婦

 「この碑は、1931年から1945年の間、アジアの16ヵ国で日本帝国軍隊によって性の奴隷とされた婉曲的に『慰安婦』と呼ばれた何千人もの女性と少女の苦痛を立証するものである。ほとんどの女性が戦争中に捕らわれの身で亡くなった。1990年に生き残った証人が勇気をもって声を上げるまで、この暗黒の歴史は何10年も隠されていた。
 戦略の1つとして女性に対する性的暴力を行ったことは、政府が責任をとらなければならない人権に対する犯罪であることを、彼女たちは世界に認識させるために立ち上がったのである。
 この記念碑はこれらの女性を追悼し、世界中から性的暴力と人身売買を根絶する運動に捧げるものである。」慰安婦を支持する正義連合

 私はこの碑文を翻訳しながら血圧が上がるのを感じた。こんな虚偽と誇大に満ちた碑文は、明らかにサンフランシスコに在住する1部の中国人と韓国人が、日本を卑しめる目的で書いた碑文であることに間違いない。このように事実にまったく合わない碑文を掲げる正義連合と称する団体に真の歴史的認識があるのかと疑わざるを得ない。
この碑文は1930年代の東南アジアの諸国が、欧米諸国の植民地であった実情を全く知らずに(または故意に無視して)書かれたものである。1945年8月15日、日本が太平洋戦争で負けるまで、フィリピンはアメリカの植民地であった。インド、ビルマ(ミャンマー)マレーシア、シンガポールはイギリスの植民地であった。インドネシアはオランダの植民地であった。そしてラオス、カンボジア、ベトナムはフランスの植民地であった。1940年9月に日本軍はベトナム(当時の仏領インドシナ)に進駐したが、これはアメリカが蔣介石総統の中国軍に戦争に必要な物資を運んでいる「援蔣ルート」を遮断するためで、勿論宗主国のフランスを日本との間で、日本軍の進駐協定を結んでのことであった。そして、1941年12月8日、日本は米英仏蘭に対して宣戦を通告し、彼らのアジアの植民地であったシンガポール、ビルマ、フィリピン、インドネシアに、日本は軍隊を進めていったのである。従って、1931年から1945年の間にアジア13ヵ国という碑文は、全くの虚言と言わざるを得ない。(当時、東南アジアで唯一の独立国は、王室を持つシャムと称したタイ国だけであった。)戦後、戦勝国は再び植民地取り戻すことができると考えていたが、これらのアジア諸国では、宗主国が日本軍に追放されて手にした独立を手放す気はなかった。そして、これらの植民地は1947年にインドが独立したのを皮切りに、1963年まで、次々と独立を宣言していった。

 日本がアメリカ、イギリス、フランス、そしてオランダに宣戦布告して、これらの植民地に軍隊を進めていったのは1941年である。この碑に書かれてある1931年というのは、まったく時系列を無視して書かれたものである。次にアジア13ヵ国と、書かれてあるが、以上の九ヵ国の他に、残る四ヶ国はいずれの国だったのであろうか。このことからも、この碑文は全く歴史的事実に無知な人によって書かれたものか、もしくは故意に歴史的事実を無視してかかれたものであろう。そして、この碑の建立を推進した団体の日本を卑しめようとする意図は明白である。そして、もっと心外なのはこの碑を可決したサンフランシスコの市会議員である。彼らはこの碑文を承認する前に、歴史的事実を調べたのであろうか? カリフォルニア州に急激に増えた中国系や韓国系の市民の票に媚びたとしか思えない。サンフランシスコ市の姉妹都市である大阪市は、慰安婦像設置に関して慎重な対応を求める公開書簡を送った。そして、13日にサンフランシスコ市から返書を受けとった。書簡は市長名で、「この碑文の文言は事実に基づいており、人身取引の問題について啓発するという真の目的を伝えている」と市の機関が判断したと説明しているとのことである。

 そして、今度はそれこそ慰安婦問題に何の関係もないジョージア州アトランタに、慰安婦を象徴する「平和の少女像」が、アトランタ市の市民権・人権博物館(National Center for Civil and Human Rights)に建てられることが明らかになった。アトランタ市韓国人会のキム・ベッキュ元会長が2月8日に明らかにしたとのことである。そして、このニュースは国立市民権・人権博物館側からも少女像の建設計画を確認したとのことである。キム元会長をはじめ、アトランタに在住している韓国人を中心に、過去3年間秘密裡に計画を推進してきたとのことである。慰安婦像と称する少女像の設置はカリフォルニア州グレンデールとミシガン州サウスフィールドの韓国人文化会館に続いて3回目で、大都市では初めてになる。

 2011年3月31日、アメリカで発行されている中国語新聞の「星島日報」は、2010年に実施された国勢調査の結果、過去十年でアジア系人口は43%も増え、1,470万人に達したと報じた。この調査によると2000年にはアジア系の人口は1,020万人だったのが、10年間で1,470万人に増えたとのことである。両親のどちらかがアジア系を含めると1,600万人に上る。アジア系住民の最も多いのがカリフォルニア州で、2位はニューヨーク州、3位がテキサス州である。人口割合でみると、アジア系が最も多いのはハワイ州で、全人口の53%を占める。なお、アジア系の人種別人口は以下の通りである。
 中国系        380万人
 フィリピン系     320万人
 インド系       280万人
 ベトナム系      170万人
 韓国系        160万人
 日本系        130万人

 ベトナム系と韓国系が増えたのは、ベトナム戦争後、北ベトナムの共産政権を嫌ってベトナムから逃げ出したベトナム人を難民として受け入れたからである。また、韓国はベトナム戦争中、米軍支援のため延べ五個師団を送った。アメリカ政府は、ベトナム戦争に参加した兵士とその家族にアメリカへの移住権を優先的に与えた。そして、彼らが五年後に市民権を取得すると、一族郎党を次々と呼び寄せたので、韓国系が急増した。私が最も疑問に思うのが、戦後70年、強制連行ではなかったが、日本は2回も10億円の賠償金を慰安婦だったというおばさんたちに贈っている。彼女たちと何の関係もない在米韓国人が、どうして慰安婦像と称する「少女像」をアメリカの方々の都市に建てようとするのか、全く理解に苦しむところである。在米韓国人の団体はこの像を建てる目的を以下のように述べている。

 「これらの女性を追悼し、世界から性的暴力と人身売買を根絶する運動に捧げるものである。」

それならば、現在も女性の人身売買が行われている土地に建てるべきであって、どうしてサンフランシスコやアトランタの公園に建てなければならないのか、それこそお門違いというものであろう。そして、3月半ばに「アトランタの慰安婦像、建設許可せず。市当局が通達。韓国系団体は失望」というニュースがコンピューターで送られてきた。アトランタの日本総領事館が慰安婦問題について日本政府の立場を関係者らに説明したことと、現地の日本人からの働きかけが功を奏したとのことである。地元紙によると、センター側は韓国系団体の代表に、「さらに検討した結果、慰安婦像設置の要求を実現する立場ではなくなった」として計画を中止し、今後も設置しないことを通達したとのことである。韓国系団体は「決定で失望した」と反発し、さらに「像を設置する別の場所をアトランタで探している」とのことである。彼らの厚かましさには呆れるばかりである。

 2014年に「歴史の真実を求める世界連合会」(GAHT)が設立された。アメリカにおける代表者はロスアンゼルスにお住いの目良浩一氏である。目良氏は八十三歳。東京大学工学部建築学科で修士号取得、ハーバード大学で都市地域計画学で博士号を取得、カリフォルニア大学教授、米国籍を取得されて、現在は引退されてロスアンゼルスにお住まいである。2014年夏、目良代表が米国の連邦裁判所に慰安婦像の撤去を求める訴えをカリフォルニアの裁判所に提出しようとしたところ、門前払いをされたそうである。目良代表によれば、カリフォルニアの裁判所の判事は慰安婦が日本の軍隊の性奴隷にされたと信じているとのことで、「日本の軍隊は女性の人権を侵害し、日本政府は悪事を行った。そのような悪事を働いた人たちを擁護するような原告には、厳しく当たるべきである」といった風潮が判事の間にあるとのことである。そのような認識が、以前からあったのか、またはこの裁判を担当するようになってから、韓国系及び中国系の人たちに感化されてそう思い込んでいるのかは明らかではない。そして、このような認識をもっている判事を相手に裁判を進めることは、非常に厳しいとのことである。彼らは、碑文の中の日本を誹謗する表現には目をつぶって、慰安婦像は彼女らの苦難を記念する人道的なものであると宣言し、外交には介入していないという判決をくだした。そして、韓国及び中国の宣伝がかなり功を奏して、慰安婦は性の奴隷だったと信じている人が圧倒的に多いとのことである。目良代表によれば、日本での常識は全く通用しないし、慰安婦についての日本側からの英文の情報が極めて少ないとのことである。

 最近、2015年9月21日発行の朝鮮日報日本語版に掲載された「話し合えとか簡単に言うけどねぇ」
という記事を読んだ。同年9月17日にカリフォルニア州サンフランシスコの市役所で行われた慰安婦像設置決議関連公聴会で、妄言を述べた日本人を李容沫さんが怒鳴りつけたということである。彼女は2007年12月15日米国下院の外交委員会アジア小委員会の聴聞会で、まったく時系列に合わない証言をした1人である。妄言を述べた日本人というのは目良浩一氏のことである。彼女は「あんたはみたのかい!私は歴史の生き証人だ。誰にそんな嘘をつくんだい。嘘をついているのは日本人だよ」と怒鳴ったとのことである。李容沫さんは「罪を憎んで人を憎まず。日本は韓国の隣国だ。これからも仲良くしていくことを願っている。この世を去る日まで、世界の女性の人権のために戦う」と言って熱い拍手を浴びたとのことである。議会の公聴会における発言と言い、サンフランシスコ市役所で行われた公聴会での発言といい、彼女こそ妄言を述べているではないか。彼女が「私は歴史の生き証人だ」と怒鳴ったそうであるが、私も歴史の生き証人である。できれば彼女と対決したいと思う。そして、こういう女性に振り回され、日本の名誉が傷つけられているのを、非常に残念に思っている。私はアメリカを民主主義で人権に対して公平な国家であると信じて51年暮らしてきた。そして市民権も取得した。しかし今では、在米中国人や韓国人の言うことだけを信じて、事実を調べようとしないアメリカの裁判所や「慰安婦像」を許可する地方政府に対して失望している。

ワイルス 蓉子(ワイルス ようこ)
昭和5年(1930年)東京生まれ。
山水高等女学校(現 桐朋学園)卒。 青山学院大学英米文学科中退。
ダウ・ケミカル、ケミダイズ(ドイツ)、ガルフ石油等の日本支社で秘書として勤務。
昭和41年(1966年)渡米。
昭和46年(1971年)、エドワード・ワイルスと結婚。
『老荘の友』(1994年廃刊)に8年間「アメリカ通信」を執筆。
現在、メリーランド州シルバー・スプリングのリタイアメント・コミュニティに住み、
隔月に日系高齢者向けのニュースレター(ポットマック通信)を発行。


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