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18053101工藤駿一

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2018.05.31 穀粒記者レポート・『建築宣教師の足跡 第3回』投稿者:工藤駿一

第1章 神の御計画
建築開始直前の状況
  私事ですが、1961年10月21日に、現代は東京神殿が建っている所に、その昔は北部極東伝道部(日本、韓国)の伝道本部でした。そのバプテスマフォントでダン・アズビー長老(彼は、ヴァ−ナン・デンスリー長老の後輩同僚でした)からバプテスマを受けました。確認と聖霊賦与の按手礼は当時東京北支部の福田濃(既に故人となられており、現在ひばりが丘ワードの福田八重子姉妹の御主人です、また福田真祝福師のお兄様でもあります。)支部長でありました。当時は東京北支部の教会堂としての建物がありませんでした。極東ただ一つの伝道本部で、ここにしか、東京地区では正式なバプテスマフォントはなかったのです。

paul andlus
david mccay

その時の、伝道部長はポール・C・アンドラスで、大管長は第9代目のデヴィド・O・マッケイの時代でした。

                    
            

 この時代の東京北支部(現:中野ワード)では英会話とMIA(相互発達協会、老いも若きも集いレクリエーション的な集会、この中には、音楽、スピーチ、福音勉強会、ダンス、英会話等々が有りました。)は毎週木曜日、当時目白にあった徳川微生物研究所記念館で、又安息日の定例集会は池袋の武蔵野ドレメ文化学院の料理教室を借りて行っておりました。若い兄弟姉妹達は率先して朝早く出掛けて、定例集会前に先ず教室の換気をし、ケーキや色々な料理の匂いを消す事から始め、次に掃除、整とんとやって、最後は白いシーツですべての調理器具を隠しました。日曜日毎に繰り返されるこの行程に、心の中で思っていました、ちゃんとした礼拝堂があったら、こんな料理の匂いのする落ち着かない雰囲気の中で(と云うのは回りに山積みされた食器類や器具類は全部は隠し切れないのです)、礼拝をやらなくて済むのに。多くの会員達はきっとそう思ったに違いありません。やはり回りに気を使いながら大変不自由な集会をしておりました。おそらくこの時代の日本全国の支部でキチンとした定まった建物を持っていた所は非常に少なかったに違いありません。ひどい時には日曜日毎に集会場が違っていた所もあったでしょうし、また幸い回りの環境にめぐまれて、決まった建物を持っていたとしても、教会堂と云う雰囲気ではなくあくまでも日本の古い家屋の域をこえなかったのです。ですから、人数が増えると同時に又教会本部から来るプログラムを見る度に、ちゃんとした教会堂があったら、落ち着いて全ての神様のプログラムが出来るのだが・・・そんな念願は会員達の心中に日増しに大きくなって行ったのです。
 この会員たちの思いは、まず教会堂建築資金獲得と言う形で早速実行されました。各支部ではそれぞれその支部の実情に合った資金獲得計画をし,実行して今から見れば本当に微々たる資金獲得ですが、当時はそれでも精一杯の行動でした。それぞれの建物の現在の維持とまた将来の教会堂建築のための資金獲得でした。
 そしてその長い念願が建築宣教師制度によって、遂に叶うことになったのです。多くの熱心な兄弟・姉妹達の揺るぎない信仰の祈りと努力と、大いなる精神的・肉体的・物質的・経済的負担の犠牲の上に、また、日本にいるアメリカ軍人(サービスマン)とその御家族の兄弟・姉妹達の大いなる奉仕と援助のもとに、そして、はるばるアメリカの地より召されて着任された建築スタッフとその御家族及び現場監督とその御家族の働きと指導のもとに、さらに自分の生活全てを犠牲にしてその全時間を奉仕のために使った建築宣教師達の、文字通り血と汗の結晶とにより、日本各地に25の教会堂が次々に完成して行きました。
 本当に、この計画に参加して日本各地で建築宣教師を支えて下さった全ての兄弟・姉妹達に心から感謝致します。特に扶助協会の姉妹達の信仰ある献身的な働きに感謝致します。彼女達の働きなしにはこの建築宣教師計画も成功しなかったと云っても過言ではないでしょう。更に、フルタイムの伝道を終えて一時的に建築宣教師を手伝ってくれた多くの兄弟達に、またパートタイムの建築宣教師として奉仕された全ての兄弟達に心から感謝の意を表します。更に建築宣教師の為に心身共に助けて下さいました奈良兄弟姉妹(既に故人となられております)と新田兄弟姉妹に心より感謝を申し上げます。そして当時建築現場に来てご自分の時間をこの建築のために使ってくださった兄弟姉妹の皆様に心より感謝申し上げます。ここに、この大いなる建築計画を記念して長くその記憶に止め、その時の、崇高な精神と犠牲を忘れる事の無いように、『建築宣教師の足跡』としてまとめてみました。
 なお、「聖徒の道」からの引用文の中に、監督とありますのは当時まだステークが組織されていない時でしたので、監督と云えば現場監督の事だったのですが、現代ではステークが組織されてワードの監督(現:ビショップ)と間違える為に、全て当時の建築の監督は現場監督に改めてあります。その他、外国の人名は全てカタカナで統一しました。そして建築宣教師にも当時いろいろな呼び方がありましたが、その全てを建築宣教師に統一致しました。また、通常建築宣教師は長老と呼ばれましたが、伝道宣教師とは違って必ずしも長老の神権を以て召された訳ではないので、ここでは全て兄弟に統一しました。またアジア地域建築総監督は地域本部長とし、会計業務担当者は地域会計役としました。叉名前の頭に役職名を付けた会員には全て兄弟姉妹と致し、名前の後に役職名を付した会員にはそのままとし全て敬称は省かせて頂きました

建築計画の予告
 過去、日本の聖徒達は主の教会堂が欲しいと心の中の願いでありました。そのために各支部では独自にいろいろなイベントを企画し、教会堂建築のために資金集めをしてきておりました。この資金集めのために、当時の宣教師達の中には『メロディーメン』という名前で各地の会場で彼らの演奏と歌を披露し、大いに活躍しました。またいろいろな分野で腕に覚えのある教会員や実際にプロ活動をされている会員の方々が、(例えばピアニストの秋元絲江姉妹のように無償の奉仕のピアノ演奏会をいろいろな会場で行ってくださり、彼女のご家族は大変なご奉仕をされました。)奉仕で行ってくださいました。また、各支部の扶助教会が中心となって、いろいろな企画をし、中でもバザーや食事会はその中心でもありました。そして神権会のメンバー達やMIA(相互発達教会)の企画で大々的にダンスパーティーを開きました。そのような方法で当時は独自に各支部の建築予算や支部予算などを獲得しておりました。そんな中で教会堂建築の機運が最高潮に達していたとき、1962年5月号「聖徒の道」に「伝道部長メッセージ」として、当時北部極東伝道部長(現:会長)のポール・C・アンドラスは以下のように教会堂建築に関する重大な予告をされました。
 画像の説明
『最近の数週間に、これまでわが伝道部で待に待った非常に必要な建築計画にある有望な進展があらわれてきました。十二使徒会々員のゴルドン・B・ヒンクレー長老の御尽力によって、教会の建築委員会は日本、韓国、沖縄に於けるいくつかの建物の建築に着手するためある処置をとるに至りました。
 ヒンクレー長老が教会の建築委員会の委員長であるウェンデル・B・メンデンホール兄弟に東京へ来る手はずを調えられたので、メンデンホール兄弟と、全世界を通じて教会の労働宣教師計画(レ−バーミッショナリープロジェクト)を管理しているジョセフ・ウイルソン兄弟とが日本へ来て二月二十七日から三月の三日まで東京に居られました。この間、ヒンクレー兄弟、メンデンホール兄弟、ウィルソン兄弟および私の4人は度々集まりを開き、わが伝道部の必要とするところを今一度ふり返って見て、今非常に必要にせまられている集会場の建築に着手する計画をたてました。またその間一日を費やして東京にある教会所有の建築用地を検分しました。
 その結果、昨年大管長によって承認された建築宣教師(レ−バーミッショナリー)を基礎として、建物の建築を直ちにすすめるべきであると意見が一致いたしました。またこの時、最初関東地方(東京およびその附近)に於いて建物を建て、次に関西地方(大阪およびその付近)に於いて建物を建てることも意見の一致を見ました。始めこれらの地方から計画を実施して、それから外にある地方に及ぼし、ついにわが伝道部にあるすべての支部に適切な建物が建てられる日があるにちがいありません。
 この勤労奉仕(建築)宣教師計画が実施されると、すべての建物は、専任勤労奉仕(建築)宣教師として働くよう伝道部長から召しを受けた伝道部の会員によって建てられます。そしてこれら男子の会員は、大管長会から召しを受けた老練有能な建築(現場)監督の指揮命令を受けて働くことになります。また専任勤労奉仕(建築)宣教師として召しを受けない会員で労働奉仕をしたいと思う人々は、もちろんそうする機会を得ることが出来ると思われます。この専任勤労奉仕(建築)宣教師たちが要する住居と食事と必要な雑費とは、伝道部の会員、とくにそれら宣教師が働いている所の各支部の会員たちが供給しなければなりません。専任勤労奉仕(建築)宣教師と非専任の勤労奉仕志願者とが勤労によって寄附をする金額は、この計画に要する費用の支部の割当に対して「貸方勘定」となりますから、割当の全部ではなくてもこうゆう風にして費用の支部割当を払うことができると大そうよいと思います。
 さて、建物の建築は実際に本年の六月か七月に始まるはずであります。ハワイ、ホノルル出身のサムエル・カラマ長老が建築監督に任命されましたから、六月には妻子を連れて日本に到着、新しい任務に就くはずであります。カラマ長老は1949年から1951年まで日本に於いて専任宣教師として活躍しましたから、日本に於ける多くの友人たちは、私と同様、カラマ長老が間もなく再び来日することを聞いて嬉しく思うことを私はよく知っています。たいていの支部に建てられるはずの建物の形式を予め表す図面は、すでにハワイの建築家が完成いたしました。最終の平面図は、今日本に於ける同僚の建築家が製図をしていますから、六月か七月に建築を始めるのに間に合うように出来上がるはずであります。
 これから建つはずの建物は美しい建物であって、私たちの必要を適切に満足させるように注意して設計してあります。各教会堂は二百五十人が着席することができるでしょう。また教会堂に隣接して休憩室があり、それに隣接して「カルチュラル・ホール」(文化活動のための広間---もとレクリエーション・ホールと言いました)があります。各休憩室の壁は折りたたみができるようになっていますから、この休憩室と「カルチュラル・ホール」とに椅子を入れますと、必要な時に五百人から七百人が着席できるようになります。また教会堂の側の方にのびた建物は教室であって、これが六教室ありますから、教会堂と休憩室と「カルチュラル・ホール」と「ステージ」の全部を利用すると十から十二の部分を教室に使うことができます。また各教会堂には衣裳室の附属しているバプテスマ・フォント(浸礼池)が設けられます。これまで描写してまいりましたことは、一般に大ていの支部に建てられるはずの建物の形式に適用されるでしょう。東京の表参道にある東京中央支部の新しい敷地に建てられるはずの建物は、地方部センターとして役立つように設計されますから、今申し上げました建物よりは大きなものになるでしょう。東京西支部と東京北支部に建つ建物の実際の建築は、本年の六月か七月に着手されるはずでありますが、東京中央地方部センターの仕事は1963年の春になってから始まるはずであります。
 私はあなたたち一人一人と共に、間もなく建築計画が実際に開始されて、伝道部の各支部に適切な且つ美しい集会場が建つことを知って心から喜ぶ次第であります。』(全文)

なんとすばらしい教会堂
 このアンドラス伝道部長のメッセージの終わりのページのところに、教会堂の完成図(絵1)の折り込みが載っていました。なんとなく日本的な感じのする白いレンガ作りの建物で今までに国内でも見た事のない建物の外観でした。これには、小さく下の方に、東京北、西、南支部完成図とありました。兄弟姉妹は皆歓びあいました。そして完成した時の色々な様子を頭の中で描いていたのです。               
church building

 1962年7月号の聖徒の道「東京北支部訪問記」の中で、この時の感動を渡部正雄兄弟は次のように書いております。当時聖徒の道を編集していた小林義生兄弟は東京北支部の会員でした。その小林義生兄弟から、渡部正雄兄弟が北支部訪問一番に手渡された出来立ての聖徒の道5月号を見て、『早速中を開くと、これは又何と素晴らしい二枚続きの色彩も鮮やかな大きな教会堂の画だ。下に東京北、西、南支部完成図と記されている。「おお素敵だ」私は思わず歓喜を挙げた。この北支部の兄弟姉妹達の喜びは如何ばかりであろうか。待に待ったこの会堂、この日本の地に初めて建つ新しき福音の殿堂、祈りの家、学びの家がまず第一にこの北の兄弟姉妹の多年の夢に応えて、北の空に建てられるのだ。誠に”一つの大路は大いなる淵の唯中に現れ、砂漠の中に生ける水の池出で来たり”である。「北支部の皆さんおめでとうございます」と私は心から申し上げずには居られなかった』と。
 当時、日本国中にある我が教会の建物は、そのほとんどが日本家屋を改造して集会場としていました。また東京北支部のように、とりあえず池袋の武蔵野ドレメの調理室をお借りして安息日の集会を開いたり、また他の支部では幼稚園や公民館などで開いたりしておりましたので、ちゃんとした教会堂が必要でありました。また当時は扶助教会をウィークデーに開きましたし、MIA(という集会があり)は、演劇、英会話、ダンス、スピーチ、福音などのクラスがあり、老いも若きも出席参加して楽しい時間を過ごしておりましたが、何せ狭く部屋数が少ないために、思うようには活動が出来ませんでしたので、会員の皆さん方はとりわけ教会堂を望んでいたように思います。そんな時にこのアンドラス伝道部長より、上記のような教会堂建築の予告が「聖徒の道」に記載されたのであります。それは北支部(現:中野ワード)、南支部(現:洗足池ワード)、西支部(現:吉祥寺ワード)の教会堂、として書かれていましたので、該当支部のみなさんは大変な喜びでありましたが、それもつかぬ間の喜びと同時に、一体いくらかかるのか費用の方も心配でありました。当時1ドルは360円で、サラリーマンの月給が2万円前後の時代ですので、数千万円以上する教会堂の支払いをどうするのか、教会本部が全額出してくれるのか、それとも支部の会員が負担する分がどのぐらいあるのかということも大変心配なことでした。と言いますのも、上記のアンドラス伝道部長の教会堂建築予告の中に太字で書かれてある部分の意味を理解できていなかったのです。その中には一言も建築資金がどれほどかかるのかは書かれてなかったからです。当然な心配ではあったと思います。
 教会堂完成図のような素晴らしい教会堂ができることは本当に嬉しいことでしたが、またその反面一体どれくらいの会員負担があるのだろうかという心配も大きなものでした。この時代日本はみんな必死で働いてはいたものの、全体的にはまだ所得は低く貧しい国でありましたので、土曜日も働いていました。そんな時代でした。
 けれども主は驚くべき方法で、日本人会員の負担を軽くして下さったのです。そうです神は、

『人がそれを成し遂げるために前以てある方法を備えてあり、それでなくては何の命令をも人に下したまわない。』 (二—ファイ第1書3:7)

とあるように、前もってある方法を用意下さっていたのであります。この事については後で述べる事にしましょう。
 人生とはままならないものです。また人によっても異なるものでもあります。しかし、全ては神の救いの計画の中にあるものです。幼い頃に心に抱いたものをしっかりと違わずに自分のものにしていく人、成長と同時に目的もどんどん変化して行く人、成りゆきに任せだが上手く立ち回りながら人生の道を行く人、また余り上手く立ちまわれないが正直な人生を行く人、等など・・・。人生は百人百様、人それぞれです。ゆえに一人一人の人生経験は貴重であるはずです。この書はかつて建築宣教師として働いた多くの兄弟達の隠れた証と経験を出来るだけ正確に記録し、日本の末日聖徒イエス・キリスト教会の教会堂建築の記憶を心の何処かに持っている古い会員達とそれ以後の新しい会員達への良き贈物になればと考える次第です。おそらく、過去、日本に於ける当時の建築宣教師達が経験した主への忠誠心と行動力、そして全てを主に託した奉仕がこれからの新しき会員達に勇気と希望と励ましを与えることでしょう。また古き時代に信仰を持って生き抜きこれらの建築に実際携って来た兄弟姉妹のために、また実際に建築宣教師として働いた兄弟達の想い出のために、この記録を残すことにしました。この「建築宣教師の足跡」を読む時に、その時の経験者はきっとその時代にタイムスリップし懐かしく思い起し自分の信仰を新たにする事となるでしょう。また、現在の会員達は過去の会員達の信仰と犠牲と血と汗の努力の積み重ねという事実の上に存在し、現在の教会の発展がある事を知ることでしょう。そして何よりも大切な事は、この建築宣教師による建築計画が神の救いの計画の一端である事の真実を知る事であります。
(4)へ続く

  • この貴重な記録によって工藤兄弟が日本の教会堂の建築計画の第一人者だったことを初めて知りました。私は1964年の改宗で、東京西支部の新しい白亜の教会堂でバプテスマを受けましたので、それ以前の借家での集会については伝聞だけでした。こうした詳細な記録を残されることは非常に価値のあるレガシーだと思います。ありがとうございました。 -- 岸野みさを 2018-06-01 (金) 10:49:15
  • 建築宣教師の第一人者という兄弟たちは私だけではありません。石川善次郎、松島烈偉、小泉裕功、チャーリー田畑、そして年若くして亡くなった大橋正弘、以上の兄弟と、建築宣教師の身の回りのお世話をしてくださった奈良冨士哉・源子兄弟姉妹のみなさんが、皆その第一人者です。奈良兄弟は既に長老でしたので我々建築宣教師の管理人でもあった訳です。既にお二人とも亡くなられて居ります。 -- 工藤駿一 2018-06-01 (金) 14:34:24
  • 石川善次郎兄弟松島烈偉兄弟は存じております。お二人のご投稿が待ち遠しいですね。奈良冨士哉兄弟は1969年ハワイ神殿訪問の帰りの飛行機の中でお祈りをされました。飛行機の爆音の中でもお祈りはよく聞こえて驚きました。 -- 岸野 みさを 2018-06-01 (金) 16:58:26
  • 優れた記録を編纂されて、貴重な貢献を続けていらっしゃると思います。私は昭和16年生まれの76歳ですが、工藤駿一兄弟は何年生まれでしょうか。(つかぬことをお聞きしてすみません。) -- 沼野治郎 2018-06-02 (土) 07:27:12
  • 沼野兄弟、お久しぶりです。大阪阿倍野支部で建築していた時には何度も沼野兄弟とはお会いしていますので、大変懐かしくまだあの時代のお若い時の沼野兄弟を思い出します。
    私は昭和18年生まれです。県つく宣教師だけの歴史の編纂をしているのですが、それに付随して教会のいろいろな場面が浮かんできましてそちらの方にも現在手をつけ始めております。思った時にやっておかなければ、すぐに忘れてしまうようになってきましたので。それからこの紙面をお借りして沼野兄弟にお願いがございます。私の個人メール sanway @jcom.home.ne.jp の方でお話ししましょう個人情報です。 -- 工藤駿一 2018-06-02 (土) 11:30:16
  • 早速のお返事ありがとうございます。連絡のこと了解です。

    -- 沼野治郎 2018-06-02 (土) 15:59:59

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