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2018.07.28 詩・散文「日記の記憶」 投稿者:スヌーピー

6月とは言え北海道で自転車に乗って受ける風は、顔に冷たく感じた。札幌市の中心、地下鉄大通駅から5駅行った所に琴似という町がある。その町の一角に僕達が滞在していたアパートはあった。アパートと言っても鉄筋コンクリートの真新しい賃貸マンション。入居しているのは若い家族連れが殆どで、エレべーターも完備されていた。昼食にいったんアパートへ戻った時、母から手紙が届いていた。埼玉から伝道に出て1年2ヶ月、僕は毎週家族に手紙を書いていた。母は僕が手紙の返事を期待していると思っていたのか、毎週返事をくれた。僕は伝道中の挫折やエピソードを面白おかしく手紙に書く作業そのものを楽しいと思っていたので、然して返事は期待していなかった。それに母の手紙の内容は、おおよそいつも想像の範囲だった。そんな母だが、それまで欠かさず返事を寄こしていたのに4月に1度よこしたきり手紙を送っ来なくなった。6月9日になり久しぶりに手紙が届いた時、僕はむしろ今日まで母が手紙を送ってくる余裕を持てなかった原因について気になっていた。封筒の裏には「祈ってから開けてください」と書いてあった。父の事だろうとは想像できた。封筒の中には父が書いた手紙が入っていた。小学生の頃、野球のグローブや絵の具ケースに僕の名前を書いてくれた見慣れた父の字だった。ただ、力が入らないのか字は弱々しく震えていた。手紙には伝道を頑張るように、そして手術で癌はすべて取れなかったので今後は薬で治療するから心配しないように、など淡々と書かれていた。手紙を読み終えた時一瞬、もう父に会えなくなるのではないかと頭を過ぎった。しかし帰還する来年の春、「あの時は参ったけど元気になって良かったよ。」と、父と笑って話すんだろうと強引なイメージを掴み手紙を机に置いた。
その夜、アメリカ人の伝道部長からアパートに電話があった。そしてその時初めて、父は後2か月しか生きられないという容態について詳細を聞かされた。僕は電話口で「2ヶ月ですか・・・2ヶ月しかないのですか・・」と繰り返しつぶやいた。あまりにも急な宣告に聞こえ、どう受け止めらた良いのか解らなかった。どう理解しようとしても、元気な父しか思い起す事ができなかった。ただ震えた字で書かれた父の手紙は恐ろしいほど生々しく感じられた。伝道部長は、母からの手紙には何て書いてあったのか聞いてきた。そして伝道部長の独特なイントネーションで「今あなたは、何をしたいですか?お父さんに会いたいですか?伝道を続けたいですか?」と、とても優しく聞いてきた。電話で話しているのに、大きな体の伝道部長に肩を抱きしめられているような感覚だった。僕は反射的に「伝道します。」と答えた。伝道前も、伝道に来て父の癌を初めて知った時も、僕は途中で帰らないと固く決心していた。だから反射的にそう答えたのかも知れない。しばらく伝道部長は何も言わなかった。長い沈黙の後「お父さんに会いに行く事について、どう思いますか?」と聞かれた。

  • 日記にはまとめて簡単に書かれていてそれを読んで思い出す、という意味の記憶でしょうか?日記の記録では無く記憶だったので、そのように感じました。続きをお待ちしています。 -- 岸野みさを 2018-07-29 (日) 23:11:41

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