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2018.11.10 自分史・家族史「追悼:伊丹政明氏」」 投稿者:向谷明

「2つの祖国」そして「2つの家庭」

彼の家には1週間に一度くらいのペースでしか訪問できませんでしたが、いつも「元気?」と言われ「ご家族の皆さんはどうですか?」と聞かれました。そのあとで「いやあ、今週は死にかけたよ~」と本当に死にかけた話を笑いながらされていました。9月24日にお墓参りに一緒に行けたのも、その前の日に「明日お墓参りに行くんだよ」と楽しそうに話をしていたところからでした。どうやって行くのですか?と聞くと「JRで国分寺駅まで行って、そこからはタクシーで」と事もなげに言われるので、私も時間があった関係で一緒に行かせてもらった次第です。そこで初めて伊丹家の墓を拝見して、親戚の連絡先も知る事が出来ました。思えばそれがなければ、亡くなった後にどこに連絡をすればいいのか途方に暮れていたと思いますので、それも何かの導きだったのかと強く感じています。
でも、本当は喉頭がんで何年も前に余命数か月と言われ、治療方法もないからとさじを投げられていた介護度4の人とは思えないような、元気で明るい方でしたし、「いつもありがとね」と私に言ってくださっていましたが、感謝をしたいのは私の方で、いつも明るい気持ちにさせていただいていました。それはきっと彼自身が先祖から受け継いで来られたクリスチャンとしての気質を持ち、そして伊丹家の跡継ぎとして幼少の頃からの訓練のたまもので出来上がったものをもっていたからだと思いました。しばらくの間あの笑顔を見る事が出来ないのは悲しいですが、またいつか次の世界で再会できる日を楽しみにしています。

初めて彼にお会いした時に、自己紹介をしたのですが「私は広島出身です」と言うと、「それは大変申し訳ない事をしてしまった。原爆投下を止められなかった事をとても後悔している」との事をおっしゃいました。
それはとても不思議に思いました。私自身も投下の瞬間を見ているわけでもなく、彼もそんな年には見えなかったからです。そのうちにぽつりぽつりとお父さんの明さんの事を話してくれるようになりました。
お父さんをモデルにした人物が出てくる「二つの祖国」という山崎豊子さんの書いた小説を私はすでに読んだことがあったので、とても興味深く聞きいりました。
お父さんの伊丹明さんは(1911年4月20日-1950年12月26日)はカリフォルニア州オークランドで父・丈四朗、母ヨシ子の4男として生まれました。父母は2人共鹿児島県加治木村の出身で、伊丹家は第17代薩摩藩主島津義弘公のお膝元「加治木島津」に仕える上級家臣であったそうです。島津家は皇室とも関係が深く、昭和天皇の皇后の母は12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)です。
丈四朗、母ヨシは共に敬虔なクリスチャンであったそうです。丈四朗は柁城(だじょう)小学校で英語を教えていたということで、渡米してからは、教会を建て、また日本人には英語を、二世には日本語を教えていたとのことでした。そのせいか明さんも英語中国語と語学には堪能だったとのことです。明さんは太平洋戦争がはじまると日本人排斥が進む中、アメリカに忠誠を誓うためにアメリカ軍人として仕えるようになりました。本当はヨーロッパ戦線を希望していたそうですが、結局はアメリカ陸軍情報部に所属して、日本に関するあらゆる情報収集に関わることとなりました。そして戦後に日本に来ると極東国際軍事裁判で、正しく日本語と英語が使われているかのモニター(言語裁定官)として活躍しました。戦中の活躍により「リージョン・オブ・メリット勲章」を授与されています。
3歳で故郷に帰り故郷で暮らしたのちに大学に入学してアメリカに帰国した明さんにとっては、戦後アメリカ軍将校として土を踏んだ加治木の町はい心地の良い故郷ではなかったようです。2度ばかり訪れたそうですが。1度目に冷たい仕打ちを受けたこともあったそうです。明さん自身、出来るだけ戦争がはじまらないように、そして戦争が始まってからは、戦争が早く終結して日本国民が一人でも多く救われるように努力したのに、その日本に帰ってみれば裏切り者扱いされたわけで、それは辛い事であったろうと思います。
そのような様々な話を彼から聞くうちに私は強く、明さんたちをはじめ先祖の方たちのために家族記録の業をすすめるべきと感じました。しかし、実は彼自身が祖母のイトさんから「貴方は伊丹家の墓守りになるのだよ」と言われていたそうですから、私が言わなくても彼自身でとりかかっていたと思います。
そんな彼ですが自身で歩いてきて、自ら教会に足を踏み入れて、そしてバプテスマを受けたわけです。それは夢の中で先祖が現れて、見えるところに教会が出来るからそこに行くようにとの指示を聞いていたからだと後日聞きました。
そして家族記録に取りかかったのですが、分からない事が発生してしまいました。彼から聞く話と、伊丹明さんについて書いている本との内容の違いがあったからです。明さんについて書いてある本には、日系二世の女性と結婚して、女の子が一人生まれたとだけ書いてあったわけです。しかし彼から聞く話は、別の話でした。つまり加治木、つまり同郷の女性と結婚して兄と私が生まれた、とのことでした。
しばらくして分かった事ですが、明さんとお母さんは内縁関係であり、結局は籍は入れていなかったという事でした。お母さんは明さんの許嫁だったそうです。戸籍上には出てきませんでしたが、しかし顔はそっくりですし、あとでいただいた資料で明さん自筆の年表にも「政明」の名前が出てきていました。ちなみに彼も語学は堪能ですし、とても頭の良い方でしたので、そういったところも明さんによく似ているのだと思います。しかし、公にそのことがはっきりと語られる事はなく、明さん関係の書籍にはちらっとそのような事が書いてあるだけでした。
その関係かどうかは分かりませんが、また早くから大病してしまったという関係もあると思いますが、結局彼は一度も加治木の土を踏むことはありませんでした。しかし私にはいつも、加治木の風景やそこに住んでいた人や関わった人、そして歴史上の人物、西郷隆盛であったり、大久保利通、坂本竜馬、島津斉彬と言った名前が出てきて、それらの人物が加治木でどのような事をしてどのような事を語っていたのかを教えてくれていました。きっと祖母のイトさんから色々と教えてもらっていたのだと思います。
私の勝手な想像ですが、明さんが日本とアメリカという2つの国の狭間で苦しんだように、政明兄弟も明さんが築いていた2つの家庭の狭間で悩んでいたのかもしれません。
しかし、そんな彼も今は霊となり自由に憧れの加治木の町を訪れた事ではないかと思います。
明さんやお母さんの静子さん、そして多くの先祖の方たちと共に幸せでいらっしゃることと思います。

「かへらばや いざかへらばや わがふるさとへ」

  • いつも伊丹兄弟の傍に向谷兄弟がいましたね。キリストのような働きを見ることができました。最後の「~いざかえらばや~」は胸に沁み込む素晴らしい句です。
    以前ご紹介した下記をご覧いただければ伊丹家の詳細が更にお分かり頂けます。

    2015.04.16 穀粒記者レポート・推薦著書「天皇を救った男」~投稿者:岸野 みさを -- 岸野みさを 2018-11-12 (月) 17:56:00

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