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2019.08.24 自分史・家族史「思想と治安(2)~帰国」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (6)

帰国期の決定はいつのことか判明しないから其れまでは被救恤者とはなるまいと我慢したが其の頃から盗難事件が随所に瀕発した。
主として石炭や薪などの燃料と可燃性家具類が軒端から失敬された。この風潮に便乗して外部から出入する商人と結託して不良中国人が闖入して手当り次第に村民の家財を盗み出していた。
中国巡警の監視などは当てにならないので分会警務班は昼夜交代で自警組織を強化せざるを得ない。
帰国が開始され出した頃には全く手のつけられないほどで不良中国人の闖入は暴力を以て遣るという凄まじさを現出するに至った。
或時は物資班所管の市場倉庫を外部から煉瓦壁を突き破って食糧物資を盗み出すという本格的犯罪が敢行されたものだ。

桃 色 の 風 潮

「帰国第一主義」を振りかざして分会本部は大童であったが、一万の村民は心もそぞろ落ち着きを持たなかったのも仕方があるまい。あらゆる種類の人たちが一定の仕事もなく長い間自由のない雑居生活をしているのだから倦怠も起り、性的不健康にも陥りがちであろう。

(イ) 「夜十時半になると第三区の納骨堂附近に“闇の女“が出没する」と専ら風評が高くなった「実地点検して善後処置を講ぜよ」と要望されたので幹事両三名と現場臨検に出かけて見た。其処は第三区本部の裏側で納骨堂の隣りにある無人の馬糧倉庫であった。
たまたま出現した一婦人に事情を聞いて見ると、子供連れの未亡人で”何時帰国できるか判らないし持ち金も全く少なくなって心細いからだ”という。早速救恤班長に引渡し、翌日から食堂で食事し居室も救恤班直属棟へ変更する手続きを取った。

(ロ)某銀行の女子事務員が管理所の某役人と国際恋愛に耽溺しているという噂は夙に聞いていた。すでに結婚の盟約をしたというから調査して見ると某役人は北京に妻子ある家庭人で到底正式の結婚など思いもよらぬ境遇の人だと判明した。銀行の監督者を呼んで其の旨を伝えたが彼女はどうしても納得しない。遂にはある日、事務所へは無届のまま彼氏と牒し合せて集結所
から脱出してしまった。

(ハ)「立春」が過ぎると暦の通り世は春を告げる日が多くなる。万寿山仏香閣に聳えるいらかは金色に燦めいて見える。世はまさに春の匂いに充ち満ちている。
門外不出の集結生活にも春の香りが浸みわたって到る処に若い男女の恋をささやくシーが展開されていた。そして連保の各所でささやかながら集結者にふさわしい結婚式が友人たちに祝福されながら行なわれていた。私も幾つかの結婚式で賓客の一人として祝辞を述べたことである。
此所の桃色はほんとうに清潔な風潮であった。敗戦、抑留、無抵抗、集結という惨めな現状から超越した或る人生のIコマという感じであった。

帰 国

昨年十二月六日に第一回帰国があっただけで二か月近く西苑にはその割当がないので悲嘆にくれていた一万村民が、「一月下旬から帰国順位が廻って来る」との朗報には飛び上がって喜んだ。予ねて村民を八大隊に分けて各々大隊長を任命してあったが愈々本格的な帰国が始まるとなると各大隊毎に其の準備に忙殺された。
かくて第一大隊一〇三五名は一月二十九日、第二大隊一〇五一名は一月三十日と続いて雄々しく旅立って行った。次いで第三大隊一〇八五名が二月五日、第四大隊ーニ五〇名が二月十二日、第五大隊一〇三五名が三月二十日、第六大隊一五五〇名が三月二十四日、そして私の属する第七大隊一七三〇名の大部隊が出発したのは三月二十五目、西苑に残った二千百余名はあと一個大隊を組成して立つが残余は北京部隊に合流して引揚げることになった。
私は第七大隊に編入されて「大隊顧問」を慫慂されたが辞退して、何の役職もなく一隊員として帰国する経験を望んだのである。私の小隊は百人余りで田中電気班長が小隊長、小隊の中には私の外に波多、笹尾、坂田、相原などの西苑分会の首脳者が交っていた。
帰国手荷物は各自持参できる範囲というので柳行李と皮のトランク各一個ずつを限度とする。外に乗船地まで使用する寝具は掛敷各一枚を許可される。手持品として道中の携行食料品を用意せねばならず其の携行食料作製には日夜苦労した。「ゆで卵」「佃煮」「カキ餅」「焼餅( ショウビソ)」「ハム」等々、同室の笹尾、三部両名死にもの狂いで活動し、胸部へ縫い付ける名札製作にも二日間徹夜したほどである。

(一) 西苑集結所出立 三月二十五日午前四時起床。五時第三連保へ集合、携行荷物の受検あり、管理所長の「送別辞」、鈴木大隊長〔物資班長〕の答辞あって七時いよいよ出発、発車駅精華園兵站まで三キロの行程を一七三〇名の大部隊が徒歩で行進するのである。集結生活四か月半、思えば長かったこの生活を顧みて万感胸に迫り、ひとり暗涙にむせびながら西苑村の風貌を心ゆくまで振り返りつつ万寿山の方へ歩を進めたのであった。
大隊指揮班員として小隊の先頭を承って歩き出したが、精華大学附近に到るや一台の乗用車が疾駆して来て傍らへ停り、車内から吉野分会長が降りて来て“先行した管理所の田行政股長の命令で「高木氏を歩行せしめてはいかぬ」と言われたのでお迎えに来た”と言う。田股長の厚意を感謝しながら其処から車中の人となって精華園站へ向う。
十二時十五分精華園站発、三十トソ積の無蓋貨車で同行三十余名、外に医療班が十数名だからまさにすし詰。それでも精華園站で各小隊が持参の材料で設備したのだが設営極めて巧妙で、天蓋をゴザで葺いて雨露を凌ぐ、車の片隅は仕切ってこれもゴザでトイレをつくってある。
途中若干の危険を感じたこともあったが夜になると男子は交替で不寝番の夜警に当り婦女子は横臥させる。豊台着が夜半で其処から北京の第四大隊、西郊の第九大隊が連結されて天津に向う、天津貨物廠へ着いたのが午後十時半であった。其の夜は貨車の中であわただしい気持のまま一夜を明かす。

(二)天津貨物廠 朝になって宿泊棟舎決定に手違いを生じ急造舎を移転すること三たび、夜八時になって漸く第一急造舎に引移ると決定、それから十一時過ぎまで荷物運びをやる。支那側から特別許可を得ているとは言え暗夜の引越騒ぎでは薄気味が悪く路傍で支那兵に時計などを強要されたものもあるし、何のためか屡々空をつく銃声に脅かされたものは忘れ得ぬ不安であった。
貨物廠での生活は悲惨なものであった。急造舎というのは昔の深川富川町の貧民長屋に似たバラック建で勿諭「床」などない。土間へ直かに持参の蒲団を敷きっめて暖をとる有様である。それでも一日二回給食があって、高梁飯と味噌汁だけでも結構なもの、炊事当番が厨房から運んで来るのを小隊長管理の下に分配する。各自用意の副食物を思い思いに広げたり、或は市場から肉類を買って来て奢侈をきわめる者もある。起床六時半、就床は午後九時、夜半は交代で不寝番につく、私も二回責任を果した。
廠内には約三万人の帰国者が次々と船の出帆を待って滞在していた。日中は知人を訪ねてわずかに楽しむ。かくして一週間を過したが中には戦犯者と同姓の故を以て出発を延期され二週間以上もこの廠内で暮さればならぬ不運な人も少なくなかった。
出発予定日が決まると検疫所へ廻されてD・D・Tを頭から吹きかけられ、白米一キロを供出して握り飯六個配給され、スルメー枚、乾パン三袋、乾燥卵半本を給付された。前夜宿泊所なる建物ヘー泊する。大きな倉庫で先きに帰国した人々の残した蒲団が山と債まれているヘー夜を明かし最後の身許調査をうける。「〇〇君は残留のこと」などとアナウンスされるとそれは戦犯容疑者か残留受命の技術者である。幸に私は其の何れにも該当しなかったので翌朝午前三時半起床、五時に荷物検査場で厳重な荷物検査をうける、此所では時計や万年筆を徴発される者多く、笹尾は時計を失敬される。


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