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19082407高木 冨五郎

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2019.08.24 自分史・家族史「帰国(2)~東京へ」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (7)

私は幸に埼玉県出身の兵隊に予め委託してあったので被害はなかった。八時半貨物廠站出発、運よく三等車に割当てられ「特殊家族」に編入されて第一番に検査を終り池塘站着十一時半、十二時半には輸送船L・S・T五十六号に乗船、午後四時半池塘港出帆佐世保へ向う。時に昭和二十一年四月三日である。

( 三) L ・S・T五十六号 帰国船は米国より借用の上陸用舟艇(L・S・T五十六号)である。
この航海が日本人船員による最初の管理で大分コンファタブルになったのだと船員が語っていた。四月三日に塘沽出帆から東京着が四月十六日で相当な時日を要したわけだが、しかしこの生活は引揚者として最後の思い出となる強い印象を残したものだ、以下当時の日記を引用して置く。

四月四日(木)L・S・Tの生活は三等船客の如きもの、今朝から給食あり、一日二食。キミ入りおかゆ、沢庵一切れ、(夜) ムキミ入り御飯、沢庵若干。
貨物廠時代用意したゆで卵其の他の副食物に助けらる。午後九時山東角をかわす頃より動揺始まる。時速八マイル乃至十マイル、天気晴朗、波おだやか也。

″ 五日(金)午後三時― 五時、甲板上にて演芸会あり。
″ 六日(土)動揺やや激し。
″ 七日(日)午後十二時半佐世保入港、船上より見る佐世保の山々、花の名残りをとどめて久方ぶりに接する故国の風景に切々たる感懐を覚ゆ。午後三時に至って連合国司令部の命令にて「全中国にて発疹チフス及びチフス流行につき支那よりの入国者上陸禁止五日間」と決定され止むなく再び船室に屯ろす。

(四)佐世保上陸 上陸禁止をくって五日間、四月十二日ようやく佐世保上陸の指令来る。午前九時待望の佐世保上陸「故国へ帰った故国へ帰った」と口々に欣喜雀躍して相抱擁し、検疫所を無事通過して自動車で針尾の海兵団へ運ばれる。筆舌につくせぬ感慨無量である。敗戦後の日本がどうなっているかは皆目判らぬが将に「国敗れて山河あり」の感懐のみである。

此所へ二泊している間に日本金千円也を兌換され、煙草二十本の無償配給をうけ、白米一合五勺、沢庵半本、引換乗車券、乾パン六食分を支給され、慌だしい中にも露店から一個二円也の夏みかんを競って買い求めて喜んだ。天津の貨物廠では一個二千円で買った夏みかんだから驚くばかり、日本金と言えばたった今千円也を受け取ったばかりなのに貨幣価値への切実な考えが湧いて来ないままに、重い荷物の苦労を忘れて夏みかんを二十個も三十個も買い込んではしゃいだものが少なくなかった。

東 京 へ

“わが家へ帰る” ”東京へ帰る”その喜びに胸ふくらませて海兵団を出発したのは十四日午後一時、そして三時五十分南風崎駅を発車する予定なのに三時ちょっと前に至って引揚団体と朝鮮人との間に問題を起し、早岐(はいき)まで連絡するため発車が二時間遅れる。故国へ帰る早々、急変した祖国の社会風潮に愕然とした引揚者たちはそれから急に無言の行をやらざるを得なくなった。
列車の中は座席一ぱいに積上げられた引揚荷物と三人掛けをせねばならぬ「すし詰」に身動きもならない。早岐駅で折詰弁当を配給されて午後六時発車、翌日は広島で朝食、岡山で昼食(ぎょうざ包)を支給されたが特に胆に銘じたのは広島の原爆跡を窓外に見うけたことである。夕食は姫路で配給され、品川駅へ着いたのは十六日(火)午前九時半であった。家族へは予報してなかったので駅頭には誰も姿を見せなかった。頭も顔も延びるにまかせた毛髪は一時に五年も老いたさくばくたる風態であった。田中留吉電気班員と出迎えた其の兄に伴って浦和の我が家へ帰り着いたのはやがて正午を三十分も過ぎた四月十六日であった。
西苑集結所から東京へ、十三日間の旅はわが生涯の最苦の頁であったことをいつまでも忘れ得ないことであろう。(此稿一九六一・三・三〇脱
稿)


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