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19091601高木 冨五郎

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2019.09.16 自分史・家族史「バプテスマ~結婚」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (11)

大学生時代(抜粋)(大正二年~大正四年)
 そのころ熱心に”モルモン教会”へ通った。教義に感銘したわけではなく、青年男女が集まって神を語り、天下を論じ、恋愛論を楽しむという雰囲気に浸って、わずかに青春のハケ口となったからである。
 自由奔放な学生生活に潤色を与えたものは恋愛問題を真面目に考えることであったろう。遊戯恋愛がどうの、絶対恋愛はどうのと盛んに議論しているうちに、多数の女性と知己になり、恋心など無責任に燃やしていたが、「光子」と知り合いになったのも此の時代のことで、彼女は十七才の少女でまだ恋愛を意識している年頃ではなかった。それから三年後に彼女と結婚したけれど、結婚など夢にも予期して卜なかったのに歳月は偶然と言おうか、私たちをついに終着駅たる「結婚」の座へ引きずって来てしまったのである。

バプテスマ 
 早大の卒業試験が終るといよいよ本格的に実社会へ船出する準面のため「バプテスマ」を受ける決心をした。教会へ通い始めてから満五年七か月の六月一日のことであった。渋谷から玉川電車で終点の駒沢駅まで、それから徒歩で二子玉川へ、其処の上流で十数名の兄弟姉妹や宣教師たちに見守られて伝道部長グラント・アイビンス長老( アイビンス長老は間もなく任期を終えて帰米した) に儀式を執行してもらった。清々しい多摩川の流れに入ってバプテスマをうけたときの印象は永久に忘れられない。水から上って河岸の小店の前庭で新伝道部長のスチンプソン長老に按手礼をうけたが兄弟姉妹たちの歌った讃美歌は何番であったか記憶にないが多摩川のせせらぎに流れ響く清々しいこだまは何時までも忘れることができない。

浪人時代(抜粋)(大正四年六月~同五年三月)
 浪人生活も半年あまりになるとすっかりエキスパートになって、其の生活態度ものんきになるものであった。この年(大正四年) の大晦日には前田、川口、武田と私の四人で沼津へ歳末旅行としゃれ込み、翌五年の元旦には干本松原の海岸で、富士山を背景に写真を撮って遊んで来たものである。

 就職問題が決まらないと閑居の日多い。閑居の日が多いと青春は徒らに遊戯恋に没頭する。徒然のままに親しい間柄の池内幸子(有馬家々令の娘)鈴木純子(二六新報前主筆の娘) と三人で、池内嬢の案内で本郷へ光子を訪問する、三月二十一日の昼下りの頃である。かくて私の生涯はこの瞬間から前途が決定されたようなものであった。よく話し合って見ると、過去一年半光子と相互疎遠となった真相が判明した。第三者の妨害が私達の心に黒い闇を蔽い被せていたと知ると私達は好むと好まざるに拘らず最後の手段を講ずべき運命に追いやられたわけである。五月五日夕刻群芳閣へ帰って見ると、あれ以来消息を絶っていた光子が私の部屋に淋しく待っていた。彼女が家出して来たというのである。
 既に新聞記者となっていた私は一個の社会人としてこの問題を正純に解決せねばならぬと覚悟し、まず教会の奈知江常姉妹に相談して身柄を一時教会に預け、次いで実家の八重姉と交渉して円満解決策を考案したのであった。

読売新聞時代(抜粋)(大正五年三月~九年5月)
結婚
 新聞記者となって間もなく光子が家出して来た。何の予告もない出来事で全く面喰ってしまった。然し例によってあきらめのよい私は結婚以外に処置方法なしと決心してその方向に工作を進めた。彼女は奈知江姉妹の許から新宿の従兄戸谷雄三方へ転じ神田の実家と交渉したところ直ちに結婚を許諾することとなった。まだ生活方針も確定していないが四囲の事情から促進され六月末日新宿北裏町に門構えの一戸を借り受け其の家で結婚式を挙げた。京橋の伯母と柳田の父と姉、それに仲媒者の戸谷夫妻というまことにささやかな華燭の典ではあった。その頃私の月収は月給が二十三円と市電回数券三冊。 

”聖徒の道”の編集
 一九五〇年から末日聖徒イエスキリスト教会発行の
機関誌「LDSメッセンジャー」の編集に当り、一九五七年には”聖徒の道”と改題された。私は一九五九年五月までその編集を続けていた。


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