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20032601高橋幸夫

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2020.03.26 穀粒記者レポート・『祝 ジョセフ・スミス最初の示現200周年記念―武蔵野の森 聖なる森』投稿者:高橋幸夫

鉄道:中央線・京王線

現在のJR中央本線は、東京都の東京駅から新宿駅、山梨県の甲府駅、長野県の塩尻駅を経由して愛知県名古屋市の名古屋駅までを結ぶ鉄道路線(幹線)である。明治5年、♪汽笛一斉新橋を♪から始まった鉄道路線の開拓は近代日本の発展とともに伸びてきた。さて線路はまっすぐにどこまでも一直線、とはいかず右に左にカーブを描いて野を超え山越え谷を越えて…… それで一直線の区間はどこにある? 距離は?と問うと、本州において一番の直線距離は東京都の中央線の、新宿を出て左にカーブを描き東中野駅へ、そこから立川駅の少し前まで、21.7㌔の区間が、ほぼ真東から真西に貫いた直線で日本第3位の長さ。1位と2位は広々大地の北海道。新宿―立川間が開通したのは明治22(1889)年4月。武蔵野の人家もまばらの原野を、曲がる必要なし、畑を林を突っ切って地平線の彼方へと線路が敷かれたのでした。東京の中心地を走る中央線、それまで閑散としていた田舎から大いなる発展をはたし、武蔵野ステークセンターがある吉祥寺など現在の隆盛を力強く誇っている。
次に府中を東西に走る鉄道は私鉄の京王線。新宿―府中間が開通したのは、中央線より遅れること27年後の大正5(1916)年である。甲州街道とつかず離れずに旅人が休む宿場町を巡っている。実は中央線は当初は人口の多い京王線ルートを通る計画であった。ところがなんと宿場町の人々や農家の猛反対が起きた。なぜか?鉄道がなくても生活は安定していた。「鉄道が通ると旅人が街道を歩かなくなって宿場町がさびれる」と、蒸気機関車が撒き散らす煙と騒音で桑の木畑ほか農作物への影響も懸念された。折り合わず、らち明かず、それで計画は変更され、甲州街道より北の、武蔵野原野を中央線が通ることに。京王線府中駅より国分寺街道を北へ3㎞の所に中央線国分寺駅がある。
武蔵野
はどういう所か。武蔵野の範囲について明確な定義はないが、広辞苑によれば埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域。広義には「武蔵国(むさしのくに)」の全域。武蔵国は律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分令制国の一つ。飛鳥時代から明治時代初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。国府が置かれた府中は奈良・平安時代に武蔵国の中心地として栄えていた。武蔵国の現在は一都二県に変遷。埼玉県の大部分、葛飾区・江戸川区など一部を除いた東京都の大部分、神奈川県の川崎市、それと横浜市の大部分。
1901(明治34)年8月12日、ヒーバー・J・グラント長老一行4人が日本伝道のため横浜に上陸。9月、武蔵野の一角である横浜の森で奉献の祈りを捧げられた。つまり武蔵野においての祈りが日本を聖なる地とされました。
写真:日本奉献の祈り 横浜の武蔵野の森にて
左寄りエンサイン長老、ティラー長老、グラント長老、ケルチ長老

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断食日曜日にあたる1901年9月1日の朝、彼らは家を出て、20分ほど歩いたところの森にやって来た。横浜市の南部、外国人住宅の立ち並ぶ一体と入江との間にはさまれた丘の上のひっそりとした場所である。ここで彼らは讃美歌「感謝を神に捧げん」を歌って会を始め、各々が順番に祈った。次に讃美歌「恐れず、来たれ聖徒」を歌い、続いてグラント長老が力強い奉献の祈りを捧げた。その後、グラント長老は、かつてオリブ山でパレスチナの地を奉献した際、使徒オルソン・ハイド長老によって捧げられた祈祷文を読み上げた。最後に4人は証を述べ合い、讃美歌と祈りをもってその会を閉じた。こうして日本の地は神に捧げられた聖なる地となったのである。(聖徒の道1981年10月号p13 )

万葉集の武蔵野
武蔵野の名の成り立ちは「武蔵の野」ということで、元来、武蔵国周辺のいわゆる東人たちが、みずからの住む山野を指して呼んだものであった。万葉集の中で武蔵野は、広漠な原野のイメージを共有する歌枕として平安時代末までに定着していった。ということですが府中の地で詠まれた万葉集の一つに、大国魂神社の前に次の歌が刻まれた碑が立っている。
「武蔵野の草は諸向(もろむ)き かもかくも君がまにまに 吾(あ)は寄(よ)りにしも」
訳:武蔵野の草が、あちらへもこちらへも、それぞれになびくように、あなたのお心のままに、私は寄り添いましたのに・・・

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写真:人々を魅了し詠われた武蔵野

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写真:リフレッシュ! サムエル編集局のさわやか奉仕。埼玉・東京・神奈川を案内し大人の遠足。武蔵野の自然に触れ親しんでいます。

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国木田独歩の武蔵野
武蔵野の情景を随筆で知らしめたのが独歩。独歩は 1871(明治4)年千葉県に生まれる。1887年早稲田大学の前身、東京専門学校に入学。1896年に渋谷村(現在の東京都渋谷区)に移住。1898年に随筆『今の武蔵野』を著した。1901年にその他の随筆を集めた短編小説集『武蔵野』を刊行。みごとな自然文学の小説家へと転身した。この作品は広く読まれ、その後の“ 武蔵野観 ”に大きな影響を与えた。… とのこと。グラント長老一行が武蔵野の横浜地区で奉献の祈りを捧げた時と、まさしく同時代。独歩は武蔵野の魅力にはまり、ナラやクヌギ等がうっそうと茂る雑木林など武蔵野中心部を巡り歩いていたのでした。
 随筆『武蔵野』から一部抜粋(2ヶ所)して次に記します。
◎武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当あてもなく歩くことによって始めて獲えられる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。
◎空は蒸暑い雲が湧きいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬(たと)えがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々(あわあわ)しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差(しんし)、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈(つん)ざく光線と雲より放つ陰翳(いんえい)とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸(ふきほんいつ)の気がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良一面、糸遊(いとゆう)上騰(じょうとう)して永くは見つめていられない。
と、独歩は散策しては風景、新鮮な気分を細やかに描写するのである。当時の武蔵野が『武蔵野』を読む人にその平原に広がる樹木と畑と野原と点在する農家の景色を想像させ、嗚呼、武蔵野が今もそのままであったならば、青葉の木立が歩く先々に、緑の散策を大いに楽しめたろうにと。今はその面影の地は減少し所どころとなり、我一人、あるいは歩き友と、独歩が歩いたのであろう道筋を、歩を進めては遠くに見つけた雑木林の木陰に歩みてほっとし、森林浴に浸り香りささやく枝葉から木漏れ日を受けて昔の武蔵野に思いをはせ、しばしたたずむのである。
また不朽の名作『不如帰』を記した徳富蘆花も武蔵野の粕谷の村に居を構え著した1913年『みみずのたわごと』にて、「野はすみれ、たんぽぽ、春竜胆(はるりんどう)、草木瓜(くさぼけ)、薊(あざみ)が咲き乱れ、大欅が春の空を摩(な)でて淡褐色に煙りそめ、雑木林の楢が逸早く、櫟(くぬぎ)、やや晩(おく)れて芽を吐(ふ)きそめる。やがて落葉木は若葉から漸次青葉となり林には金襴銀襴の花が咲き、畑の境には雪のように卯の花が咲きこぼれ、林端には白いエゴの花がこぼれ、田川の畔(くろ)には花茨が芳しく咲き乱れる」と風景美を細かに詠っている。

聖なる森
1820年ジョセフ・スミスの最初の示現から200年経つ今年、どなたもがジョセフ・スミスが受けた聖なる森の経験を、天父と御子にまみえた有様を信じ末日聖徒としての証を抱いておられると思います。その示現を現わされた森は人目から離れ、まさしくお二方にまみえるには真の聖なる森でした。今私たちがその情景を思い浮かべるに、遙かなる異国の緑深き森林に覆われた日本でも、府中周辺においては武蔵野の森へ出かけて思いをはせ祈りを捧げることができることでしょう。早春の府中は木々が芽吹いて葉がちらほらと、ツクシも出てきて、カタクリが咲き始めの頃ですね。すがすがしい新鮮の香りの聖なる森ではジョセフは今日の救いにつながる偉大なる体験をなされたのです。
主が恵んでくださった緑の大地に触れ親しみ、慈しみを覚えることに感謝いたします。
写真:早春の芽吹き

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200年前の春,ある晴れた日の朝に,ニューヨーク州北部の外れにある静かな森で,父なる神とその御子イエス・キリストが少年ジョセフ・スミスに御姿を現されました。神の属性や絶えざる啓示の必要性,その他の永遠の真理は長い間忘れられていてよく分からず,霊的な暗闇に覆い隠されていて臆測するしかなかったのですが,この奇跡によって,幾世紀にもわたるそのような時代が終わりを告げたのです。  (リアホナ2020年2月号p19 )
……あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう。……  
……そこで神に願い求めるというこの決心に従って、わたしはこれを実行するために人目を避けて森に入って行った。それは1920年の早春、美しい晴れた日の朝のことであった。私がこのようなことを行おうとしたのは、生涯で初めてであった。わたしは不安のまっただ中にあっても、声に出して祈ろうとしたことはまだ一度もなかったからである。わたしは前もって決めておいた場所に人目を避けて行き、辺りを見回し、自分一人であることを確かめると、ひざまずいて、心の願いを神に告げ始めた。……
         (ジュセフ・スミス-歴史p62,63 )
画:最初の示現 聖なる森にて ジョセフ・スミス
画提供:ニューヨーク州在住のChikako (山瀬)Reilly姉妹

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預言者ジョセフ・スミスは、現代の生ける預言者たちと同様に、この人生で個人の啓示を日々受けるようにという勧告を、愛の深い天の御父と救い主と聖霊から受けました。わたしたちもその勧告を受け入れますようにと、私は祈ります。  (ヘンリー・B・アイリング管長)

  • 1901(明治34)年8月12日、ヒーバー・J・グラント長老一行4人が日本伝道のため横浜に上陸。9月、武蔵野の一角である横浜の森で奉献の祈りを捧げられた。つまり武蔵野においての祈りが日本を聖なる地とされました。
    かの地が武蔵野の森だったとは知りませんでした。国木田独歩の映像が見えてくるような表現力に忘れかけていた日本文学の極め付きを再認識しました。
    -- 岸野 みさを 2020-03-28 (土) 11:23:26

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