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2020.05.22 エッセイ「危うい所で」 投稿者:徳沢 愛子

日日草74号 より転載

早朝の散歩というものはいいものである。三文の得以上の収穫がある。朝6時家を出る。犀川辺りからニセアカシアの強烈な香りが、雪見橋の中程まで流れてくる。惚れた男性との逢瀬もかくやと思うような、つい小走りの気分である。 雨上がりのうすら寒い朝であった。未だ珍しく整備されていない川ぶちの田舎道には、あちこちに大きな水溜りがあった。水溜りや泥んこ道を避け、ポン、ピョンと飛びながら行く。我ながら何やら青年の肉体になったのではと感ずる軽やかさ。新緑とニセアカシアの香りのせいかもしれない。道の両端には大 小のニセアカシアが点点と並び、豊かな川の合唱を左に聴き、美味しい空気を吸って歩いていくと、日常からどんどん離れてゆく。異界に迷いこんだようだ。垂れ下がった白い二セアカシアの花房に小鼻をくっつけてくんくん嗅ぐ。肉体は溶けて消え失せ、魂ひとつ浮遊始める。これを浄福といわずして何といおう。そのニセアカシアの下に、ひときわ大きい水溜りがあった。縦五米、横一米半、 深さI〜五 糎、水面全体が黒っぽい。ハテ? しゃがみこんで見ると、いやーびっくり。何百匹といるおたまじゃくしの大軍団ではないか。 蛙のお母さんたちは丼戸端会議で、子どもらにとって生き抜いてゆける唯一良い環境はどこだと、大論議が声高に交わされたにちがいない。もし、三日も四日も暑い晴れの日が、続けば、こんな水溜りはたちまち干せ上がってしまうだろう。お母さんたちはこの次第に劣悪になっていく住宅事情を憂えて、侃侃諤諤かんかんがくがくであったのだろう。腹の底からの祈りをこめて、希望をもってこの水溜りに産卵したのだ。次の日もニセアカシアの香りの底で、小粒のおたまじゃくしたちは、手も足もないけれど尾を勢いよく振って活発に泳ぎまわっていた。幸いなことに天候は不安定で、小雨が降ったり、曇りであったりのせいか、おたまじゃくしは順調に育っていった。じっと息をこらして見人っているひととき。これをも又、至福の時間と言おう。
ところがギックリ腰で四、五日散歩はお休みしたのだが、久しぶりに出かけると、すでにあの真っ黒になるほどの水溜りは きれいさっぱりの主不在で、水すましが我物顔ですいすい泳いでいるばかりであった。蛙のお母さんたちよ、ご安心あれ。あなたたちの子どもらは、無事旅立った。濡れた青草の中を夜更けガサガサと一列縦隊に消えていく図は、まるで童話の世界、感動的であったにちがい ない。ニセアカシアの生も、おたまじゃくしの生も何と危うい所に在って、正正堂堂としているのだろう。

  • 清々しい情景が脳裏に浮かびます。姉妹の感性の豊かさに感動しています。 -- おーちゃん 2020-05-23 (土) 08:38:01
  • 律法に従っている草木や生物を観察する姉妹の眼差しはベンジャミン王と同じなのだと改めて感服しています。 -- 岸野 みさを 2020-05-23 (土) 17:45:42

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