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2020.07.30 旅行記・紀行文「稲沢市立明治中学校未公認自転車部その3 伊勢へ」 投稿者:HolynameJC

その3

 中二の秋、養老の滝往復を走破した未公認自転車部(相変わらず二名)は、翌年の春休みを利用して「二泊三日伊勢神宮往復の旅」を決行した。この時は部員が一人増え、三人での旅となった。
 新しい部員の名は「コンチ」、同級で部活も同じ軟式野球部で二年の時から正捕手をしていた。「ドラえもん」のジャイアンに似たキャラクターの男子で、背は小さいが色黒でいかつく、一見怖そうな印象だが実は心優しい好男子で、女生徒に人気があった。大人になってから耳にした噂では、中三の頃から付きあいはじめた同級の女子と、けっこう若い年齢で結婚したということだった。
 今回も出発は早朝になった。春休みで無人の明治中学校の校門前を通り過ぎ、旧の155号線を南下して立田村で木曽川の堤防に出て、コンチが仕入れてきた情報に従って渡船場を見つけだし、生まれて初めて船なるものに乗って木曽川の緩やかな流れを横切った。
 老齢の船頭さんと話が弾み私たちの計画を話すと、「帰りもこの船に乗るのかね。」と言ってくれたが、三人ともこれから走らなければならない膨大な距離と、通り過ぎるはずの町々を思い巡らして、それが途方もない冒険のように思われて、返事を返すことができなかった。はたして私たちは無事に戻ってくることができるのだろうか。  
 十分ほどの船旅の後、私たちは船頭さんに別れを告げ、対岸の羽島に上陸した。やがて国道1号線に乗り、後は一路伊勢を目指して走りはじめた。お昼をまわった頃、進行方向に異様な光景が広がってきた。青い天に向かって高く伸びきった何十本もの煙突の先から、オレンジ色の炎が揺れて見えた。まるで巨大なろうそくだった。
四日市の石油コンビナートだ。当時は煤煙の公害が騒がれ始めた頃で、喘息などの被害者の会が組織されたりして、よくニュースで流れたりしていた。この日、私は真っ白なポロシャツを着て走っていたが、四日市の町を通り過ぎる頃には、シャツの全面に黒くて細かい粒子がいっぱい付いていた。
 四日市の市内で1号線に別れを告げ、私たちは23号線に乗った。鼻孔にずっと潮の匂いを感じていた。話しかけると、三人ともしばらく海を見ていなかったことがわかったので、道草をすることにして、海が近い白子の町で左に折れて海岸に向かった。そこは鼓ヶ浦という海水浴場で、もちろん誰も泳いではいなかったが、良い天気で気温も上がっていたので、いくつかの家族連れが砂浜で遊んでいた。近くに港があるのか、何隻かの漁船が波を切って走っていた。私たちはしばらく砂浜に腰を下ろし、近くの店で買った菓子パンで空腹を補った。パンを食べながら、私はビリに気になっていたことをたずねた。「今夜はどこに泊まるんだ?」
 今回は二泊三日の計画だが、私もビリも、そしてサイクリング初体験のコンチも、走る距離にばかり気をとられていて、宿泊については計画の段階で話にも上がらなかった。他の二人のことは知らないが、私は宿に泊まる予算を準備していなかった。おそるおそる聞いてみると、二人も同じだった。今からなら今日中に家に帰れると言おうとしたが、言い出せなかった。わずかに沈黙があったが、「なんとかなるさ。」というビリの言葉を無理やり信じて、三人は砂を払って立ち上がった。
 そのまま真っ直ぐに海沿いに走れば、自然に伊勢に到着するのだが、計画の段階で途中で道を逸れて西進し、山道に入ることに決めていた。当初、ビリの長期計画では、伊勢走破の後は夏休みに琵琶湖を一周してそれで最後にするということになっていたのだが、伊勢行きの直前になって、計画が追加されて卒業旅行で紀伊半島を一周しようということになり、今回、そのシミュレーションと練習を兼ねて、山道を走ることに決まっていたのだ。
 私はこの計画の流れを気に入っていた。規模はまったく違うけれども、十回のミッションを繰り返して、十一回目にしてようやく月面着陸を目指すアポロ計画に似ているなと思っていたのだ。私一人が宇宙飛行士気分で、コックピットのメーター類を気にするような仕草で、たった一つしかないスピードメーターに時々目を凝らした。
 山道の上り坂は思った以上に急で、自慢の五段変速の効果も次第に怪しくなっていた。最後には最も軽いギアで一生懸命ペダルを踏んで、前輪を左右に揺らせながら何とか登り切る場面が幾度もあった。もちろん、当然のように下り道もある。「多くの艱難の後に祝福は来る」という世の救い主の言葉を当時知っていれば、まさにこれこそそうだという証になったことは間違いない。下り坂では自転車でも四十キロ以上のスピードが出る。私たちはブレーキをかけずに坂を下り、風になる心地よさに酔ってしまっていた。
 何度目かの下り道を猛スピードで走っていた、私は運転を過って路肩の段差にタイヤをとられ、かろうじてブレーキをかけたけれども間に合わなくてガードレールに激しく衝突してしまった。怪我は大したことはなったが、前輪がパンクし、リムがわずかに変形した。このため、その後ずっとブレーキをかけるたびに、ブレーキパッドがスキップするという後遺症が残ることになった。
 パンク直しの名人を自称するビリが、早速工具を取り出して見事な早さでリムからタイヤをはずし、チューブを引き出してみると、10センチほど裂けていることがわかった。チューブは破裂していたのだ。釘を踏んでできた穴なら簡単に直せるのだが、これではさすがの名人も手が出せなかった。こういう時ビリの決断は早く、車を止めて町の自転車屋まで運んでもらおうということになった。
 テレビで見たことがあるヒッチハイクのように車が通るたびに手を挙げて合図するのだが、現実はドラマのようにはいかなかった。十台ほどの車が通りすぎてあきらめかけた頃、一台の自転車が下ってくるのが見えた。    
 荷台の両側に大きなサイクリングバッグが取り付けられていた。明らかに同業者(?)だ。自転車は私たちに気づき、ゆっくりと近づいてきた。ずっと年上の男性に見えた。「パンク?」と彼は言い、三人は同時に頷いた。彼は私の前輪のチューブを見ると「これはひどい。」と言い、自転車のフレームに取り付けられていた工具入れを取り出して、修理を試みてくれた。彼は東京の某大学の医学生だそうで、医者も自転車屋さんも同じなんだよと言って、古いチューブを適当な長さに切って、裂けた部分に糊を塗って貼り付けた後、石で叩いて密着させ、あっという間に直してしまった。私は心から感謝の言葉を述べ、ビリの目は尊敬の念を表してキラキラと輝いていた。世が世なら、「弟子にしてください!」と叫ぶところだろう。 (つづく)

  • これは当時の記録から書き起こした文章ですか?記憶か記録か最初のころはどっちだろうと思いました。映像のように目に見える表現力はお見事です。「弟子にしてください」は笑いました。 -- 岸野みさを 2020-08-01 (土) 11:28:05
  • 長文ですが、意外な展開と描写力のある文章でつい引き込まれてしまって、あっという間の読了でした。続きを早く読みたい、と思っています。こんなことが日常的によくあるんだろうな、この人は、とちょっぴり羨ましくもありました。
    -- おーちゃん 2020-08-02 (日) 21:48:38
  • お二人の優しいコメントありがとうございます。
    この作品はもう二十年ほど前に書いたものをそのまま投稿させていただいたものです。その当時で既に三十年前の話でしたので、記憶も曖昧で多少思い込みの部分もあるかもしれません。
    物語はこの後伊勢旅行の後半、中三の夏の琵琶湖一周、そして紀伊半島一周卒業記念の旅へと続きます。最後までお付き合いいただけると幸せです。 -- HolynameJC 2020-08-03 (月) 11:29:21

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