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20090101HolynameJC

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2020.08.05 旅行記・紀行文「稲沢市立明治中学校未公認自転車部 その五 琵琶湖一周の旅」 投稿者:HolynameJC

 中学最後の夏はあっという間に終わった。そして二学期の始業式の翌日、登校してまもなく全体朝礼の連絡が校内放送で流れた。 
 全体朝礼は校庭で行われる。快晴の空の下、気温はすでに30度を超えている感じで、立っているだけで額に汗がにじむのがわかった。
 朝礼台の上では校長の挨拶が終わり、変わって教頭が上った。常に生徒をさげすみ、いやみで皮肉屋の嫌われ者だ。
 中一の夏、ビートルズが来日して日本武道館で公演を行った翌日、担任が休んだために、たまたま私のクラスのホームルームにやって来た教頭は「昨日ビートルズの公演をテレビで見た人?」と言って生徒に手を挙げさせた。コミックバンドのドリフターズが前座を受け持った伝説の公演だ。
 数人の生徒が自慢げに手を挙げた。もちろんその中に私もいた。同級生たちは男子も女子もタイガースやスパイダースに夢中で、彼らの元祖であるビートルズなど誰も知らなかった。私もわずかしか知らなかったが、少しだけでも知っていることが誇らしかった。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの名はいつでもフルネームで諳んじることができた。これには種があった。尊敬する兄がビートルズの大ファンだったのだ。中学期のわたしは兄の模倣犯(?)のようなもので兄の影響であるときはヒトラーを崇拝し、あるときは教室でモデルガンを暴発させて、理科の教師にこっぴどく叱られ、そしてビートルズに傾斜した。
 ところが教頭は「あんなものを見るのは不良だ。今後は気をつけろ。」と言って、私の純真な心を傷つけた。それ以来、私は教頭を教師とは認めず、汚れたものを見るような目で彼を見ていた。
 その朝、教頭は朝礼台の上から、ずらりと並んだ生徒たちを見回すと、「三年一組山形、山田、三年三組近藤、前に出なさい。」と言って、未公認自転車部の三人を呼び出した。琵琶湖行きがばれたらしいとわかり、朝礼台に向かって歩きながら私の頭の中が激しく回転した。
 実はわたしたちが自転車で時々遠出をしていることは以前から学校側に知られていて、あまり良いことではない、といった程度の表明がいつ頃だったか出されてはいた。しかし決して禁止されていたわけではなかったし、生徒手帳にはサイクリングのサの字も書かれてはいなかった。責められることは何もないと素早く結論を出すと、私は胸を張って朝礼台の前に立った。横を見るとビリもコンチもまったく動揺してはいなかった。          
 「おまえたち三人、自転車で琵琶湖を一周したという話を聞いたが本当か?」教頭がそう言うと、校庭に生徒たちのざわめきが起こった。私たちはそれを非難ではなく、好意的な賞賛の声として聞いた。全校生徒の視線が背中にはりつくのを感じ、胸が快くドキドキした。
   ビリが部長の立場で「はい、本当です。」と答え、二人が続いて「はい」と答えた。「誰の許可をとって行ったのか?」と教頭が尋ねたので、ビリとコンチは「両親に」と答え、父がいない私は「母に」と答えた。担任は知っているかという教頭の質問に、ビリは「それは木村先生(担任)に聞いてください。」と答えた。生徒のにわずかに笑いが起こった。その方を教頭は睨みつけた。その語感からビリも教頭が嫌いなんだと私は初めて気づいた。
    実のところ、担任がこの件について知っているかどうか、私たちは知らなかった。むろん、許可をとってはいなかったし、琵琶湖の件について知らせてもいなかった。ただ、私は担任の木村先生が教頭を好いていないことに気づいていた。彼は非常に正義感の強い教師で、授業の中でも体制を批判する発言が多かった。いつだったか、歴史の教科書に「終戦記念日」という記述があったのを取り上げて、これは「敗戦記念日」とするのが歴史を正直に受け入れる態度だ、と言って生徒たちに訴えたことがある。その彼が教頭のように子供でもいかがわしさを感じさせる人間を好くはずがなかった。
 この件は朝礼以上のことは起こらなかった。朝礼後のホームルームでも担任の木村先生は何も言わなかった。そのことが彼の教頭への無言の批判であったと、私たちは感じていた。ただ私たち三人はその日一日、英雄のような扱いをクラスの仲間たちから受けた。みんなが琵琶湖のサイクリングについて知りたがっていた。そして教室の隅には一年生の時からずっと片思いでいる女子の視線があった。何人かの仲間に取り囲まれながら、私はと言えば、ただその女子に聞いてもらいたいという思いで、ちょっと大きめのボリュ-ムでそれを語った。

 ビリとコンチと私は、軟式野球部の夏の大会が一回戦で終わった数日後に琵琶湖に向けて出発した。今回は伊勢旅行の反省でお金を出し合ってテントと寝袋を購入し、宿泊の計画もしっかりと立てた。
 今回はいったん北上して一宮から尾西に抜け、濃尾大橋を通って西に進路をとった。濃尾大橋は当時は有料道路になっていて、自転車も五十円徴収されたと記憶している。大垣市内で国道21号線に乗り、関ヶ原を通り、米原で初めて琵琶湖の湖面が光を反射しているのを見た。私たちは湖岸に自転車を止め、水際までの狭い砂浜を走った。
 私は初めて見た琵琶湖の大きさに驚嘆した。天候のせいか対岸が見えなかったため、まるで海を見ているように思えた。岸の近くで何艘かの小舟を浮かべて網で漁をしている人がいた。水を含んだ網をパッと空中に投げると網が太陽の光を反射して光り、音を立てて湖面に広がる。古くから行われている漁の姿に違いなかった。
 三十分ほど休憩すると、私たちは再び自転車に乗り、今度は北上する形で琵琶湖畔に沿うように走り始めた。琵琶湖湖岸道路だ。走りはじめてすぐに長浜の町に入った。今は豊臣秀吉がまだ羽柴氏を名乗っていた時期に築城した長浜城を再建した城が石垣を湖水に浸しているが、私たちが長浜を通り抜けたときは再建前で、城は無かった。
 日が沈む前に木之本にあるキャンプ場に到着し、テントを張って夜を過ごした。これは予定通りだった。テントの張り方は購入した日に3人で練習済みだった。実は私はテントで眠るのはこれが初めてだった。松の並木に囲まれたキャンプ場で寝袋に入って眠りについたが、夜中に風が強まり、松の梢が鳴る音と、湖畔に打ち寄る波の音が大自然の中にいることを思い知らせてくれた。
 朝が明けても風は止むことなく梢を鳴らし、波を高くしていた。出発してすぐに国道8号線に出た。この国道は福井で日本海に出、その後内陸に入ったり、また海に出たりしながら金沢、富山などを経由して新潟まで続く北陸の幹線道路だ。右に回ると余呉湖(よごのうみ)と呼ばれている小さな湖に通ずる道があったが、時間に余裕が無く、寄ることはしなかった。それからわずか六年後に、後に妻となる女性とその湖を歩いて一周することになるとは思いもよらないことだった。
 私たちは左折して西に進路をとり、しばらくして賤ヶ岳隧道と呼ばれる長いトンネルをくぐった。十六世紀末、織田信長の死後、天下の覇権をかけて豊臣秀吉と柴田勝家が戦った山の麓に当たる場所だった。もちろん、そんなことは知らずに走り抜けた。その辺りはまた琵琶湖の最北地点でもある。やがて道は南下し琵琶湖の西側に出る。
 湖面は時折、家並みに隠れたり、樹林に見え隠れたりしながらもいつも私たちの左にあった。琵琶湖西岸を流れる安曇川という一級河川を越えたあたりで昼を迎えた3人は道端にあった売店に自転車を止めてパンを買って食べた。店の女主人が見慣れぬ子供たちと思ったのか、どこから来たのかと尋ね、それに答えると、それは大変だと言って、実は今近畿地方に向かって台風が近づいていることを教えてくれた。夜来の風はその前触れだったのだ。
 そこは今回のサイクリングコースのちょうど中間点で、もちろん私たちには前に進むことしかなかった。私たちは相変わらず左に琵琶湖を感じながら、南下の足を速めた。大袈裟に言えば台風に向かって走るという感じだった。幸いまだ風はそれほど強くなく、雨もなかった。ほとんど休憩もなく走り続け、風が強くなり、陽が落ちはじめた頃に琵琶湖大橋のたもとに到着した。
 テントを張れるような場所はどこにも見あたらなかった。たとえあったとしても、私たちが持ってきたテントではとても台風の風に持ちこたえることはできないだろう。そんな話をしていると、コンチがあれはどうだ、と言って湖畔を指さした。見ると、琵琶湖大橋を見上げる位置に小さな飯場が一つ、心細げに立っていた。頼み込んで一晩お世話になろうと近づくと、人影が無く、扉も鍵がかけられていた。小屋を一周して窓を確かめたが、すべてしっかりと閉められていた。私は伊勢の百姓小屋を思い出していた。きっとこの飯場にも調理器具や食器類が置かれているに違いなかった。
 (どうする?)と三人は顔を見合わせたが、答えは決まっていた。やはりこの飯場しかなかった。実はコンチは大工の長男で、もちろん将来跡継ぎになることに決まっていた。そんなわけで、多少は大工の知識や腕を持っていた。自転車のことならビリ、家のことならコンチだ。そんな期待を裏切らず、コンチはビリに手伝わせて、鍵のかかったままの引き戸を二枚同時に持ち上げて手前に引き、簡単に外してしまった。今思えば明らかな犯罪行為だったが、サイクリング、台風、闇のおとずれという特異な環境が、そのような思いを起こさせなかった。これは当時のはやり言葉で言うサバイバルだ。生きるためには時に犯罪まがいのことも正当化されねばならない。
 私たちは早速中に入って扉を元に戻し、食事も睡眠も可能であることを確認した。電気も配線されていて、灯りもつけば、調理もできた。夜を越すには十分な環境だった。台風は思ったほどの大きさではなく、風も雨も恐ろしいものではなかった。窓ガラスが時々ガタガタと震えたが、いつしか心の緊張はほぐれ、私たちは安らかに眠りにつくことができた。ただ、朝は早く起きなければいけない、ということだけは全員が肝に銘じていた。その飯場には生活感が十分に漂っていて、日が昇る頃には間違いなく作業員がやって来ると思ったからだ。
 翌朝、私たちは太陽よりも早く起き出し、朝食も摂らずに飯場をきれいに片づけて外に出た。風は夜のうちに止み、空は台風一過の快晴だった。堤防を上ればそこはもう琵琶湖大橋だった。私たちはこの橋を渡り、再び琵琶湖の東岸に出た。
 私たちは再び国道8号線に乗り、やはり琵琶湖を左に見ながら北を目指した。どこにも寄る予定はなく、米原で国道21号に乗り、来た道を懐かしい故郷に向かって走るだけだ。
 濃尾大橋を渡りきった時はすでに陽が沈もうとしている時だった。その時点で私は達成感に浸っていた。稲沢・米原間往復120キロ、そして琵琶湖一周160キロ、計280キロを仲間と共に走りきった。その思いが私の心を満たし、豊かにしていた。
 私たちは闇に包まれている明治中学校まで一緒に走り、そこで別れた。今度会う時は新学期の教室だ。それまでに夏休みの課題を終えなければならないし、少しは受験生らしく勉強もしなくてはならない。だが家に帰るまではまだ心は遊んでいた。
 春はすぐに来る。受験は通り過ぎなければならないが、その先には新たな目標である卒業旅行がある。「紀伊半島一周」とビリは言った。予定期間は一週間だった。まだ何の資料も取り寄せてはいなかった。私について言えば、母にもまだ話していなかった。はたして実現できるか、何の風景も思い浮かばず、ただ無心に目の前の路面を見て、ペダルを踏み続ける自分を想像していた。

  • かっこいい学園ドラマです。生徒を蔑み、イヤミで皮肉屋の教頭だなんて、顔までありありと見えてくるような表現力に感服!まだまだ続く青春ドラマにビバ! -- 岸野みさを 2020-09-01 (火) 22:03:50
  • 中身は全く違いますが、夏目漱石の”坊ちゃん”を彷彿とさせる文体の軽快な筆タッチで読む者をグイグイとJCさんの世界に誘ってくれます。これって実話ですよね。だとしたらなおすごい。次回を楽しみにしています。 -- お−ちゃん 2020-09-02 (水) 03:17:59
  • 冒険は若者の特権である。冒険にはそれなりの決断と勇気が必要である。と私は思います。何故なら、人生は常に冒険だからであると言えるからです。人生にとって必ずその冒険は肥やしになるでしょう。 -- 工藤駿一 2020-09-02 (水) 15:50:05
  • 冒険は若者の特権である。冒険にはそれなりの決断と勇気が必要である。と私は思います。何故なら、人生は常に冒険だからであると言えるからです。人生にとって必ずその冒険は肥やしになるでしょう。 -- 工藤駿一 2020-09-15 (火) 13:18:07

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