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2013.09.07岸野みさを

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被災地の今

―畠山卓也石巻市北上中学元校長講演会―     2013.9.7(土)八王子ワード
 
 
                            畠山卓也先生

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 配られた資料を読んで、初めに被災者の皆さんのお気持ちをここに伝えたいと思いました。沢山の人たちの文章や、短歌などを原文のままお知らせしたかったのですが、残念ながら著作権の関係で私の劣文にて内容をまとめて報告させて頂きます。

 自分たちの手で復興を、というテーマで亘理町の中学2年生のB君は、仮設住宅の生活は薄い壁一枚を隔てただけの部屋で、テレビの音を小さくして、家族の会話も減らして勉強する時は机がきしまないようにして使う、と書いてありました。

 津波の直後、岩城の海に浮かぶようにして一畳の畳の上に一人のおじいちゃんが座っていました。消防団員がロープを投げるとおじいちゃんはそのロープをしっかり握りしめて、はじめは近づいたのですが、やがて力尽きて手を離し、そこへ津波がきました。おじいちゃんは沈んでいく瞬間「立派な岩城をつくってくれ!」と叫んだそうです。

 その日若いママは「津波が見えるっ!…いままでありがとうっ!」と母親に電話をかけてきて、自分の子供と共に津波に呑まれていった、という記録もありました。

 両親と妹が津波で行方不明の4歳の幼稚園児がママ宛の手紙に「いきているといいね。おげんきですか?」と書いたそうです。

 短歌では
 この村のオタマジャクシはオタマジャクシのまま死んだ、という句や
せっかく津波で生き残ったのに破傷風で死んでしまった友を瓦礫の中の寺で見送る、という句がありました。

 子供が津波で行方不明になり、遺体を見ていないので死んだことにはできない、という母親や、雁がねぐらへ帰って行くように死体は陸に戻ってきてくれ、という句もありました。

 春の渚にランドセルが漂っていた、という句や漂流物をテレビで見ていた女の子が「おじいちゃんもカナダにいるかも知れない。」と言ったという句や、先生でしょうか、夕方東風が吹いてくると、74人の児童の声が聞こえてくる、と。また他の先生は、行方不明の生徒たち一人残らず卒業した、という句がありました。

 どれもこれも涙なくして読むことはできませんでした。畠中代表は「こころの相談室フォレスト」新聞に涙のひとつぶが復興の源になると書いてあったことを思い出しました。

 校庭に設けられた仮設住宅120世帯の自治会長を務めておられる男性(77歳)は、外からは見えにくいかも知れない自宅被災者やみなし仮設(アパート)にも多くの被災者がいることを述べ、支援を受けることを特権と勘違いしている者もいて、それがいずれ自立する際の妨げとならなければいいがと願っている、と書いてありました。
 
          畠中耕三氏

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 講演では、初めにNPO法人「こころの相談室フォレスト」代表畠中耕三氏のお話がありました。彼は3.11後3.20には、居ても立ってもいられず、寝袋や食料をザックに詰めて仙台市に飛び20日間現地で寝起きしてみて、この惨状に対して何が必要であるのか、自分は何が出来るのかを考えたと話されました。

 偶々、私ども(筆者)が某保険会社の代理店をしていて、仙台の懇意にしている同業代理店の代表者を畠中氏に紹介すると、その方から石巻市の元教員の活動家を介して北上中学校長をご紹介されて、そこから始まった御縁だったと話されました。北上中学の校長室で被災者がどのような支援を望んでいるか伺うと、バス一台ぐらいの人数のボランティアであれば学校に宿泊が可能だというお話で、町田ステークの青少年を主体にヘルピングハンズ・ボランティアバスを送ることになりました、と述べ、中学校には寝袋が用意されていたと話されました。
 畠山校長とのこの最初の出会いで、この方は特別なもの(使命)をお持ちであると感じましたと言い、最大被災地石巻市周辺地区の仮設住宅にっこりサンパーク(178世帯)の人々は畠山校長を頼りに生活していて、高尾ワードの本多隆治ご家族が毎月そこを訪問していることにも言及されました。

 本多隆治氏は「こころの相談室フォレスト」の当初の新聞に自分たちのグループの名を「レスキューキャット」と名づけ、それは被災地で活躍した救助犬、レスキュードックに比べれば、実際には猫の手を貸すことぐらいしかできないのでその名をつけた、と述べています。

 畠山校長は岐阜県の郡上(ぐじょう)奉仕隊41名を学校に受け入れて、日本三大盆踊りの一つ「郡上踊り」を体育館にやぐらまで建てて被災者と共に踊り、更にまた運動会にも取り入れ、踊りの輪が広がるように被災者とボランティアが一緒に踊ることによって元気の輪が広がって行くことを、初めから予測されておられたと畠中代表は続けました。

 畠中代表はまた、北上中学の校庭で自分の車と同じ「八王子」ナンバーの車を見付けて驚いたことを語りました。八王子から500キロも離れている宮城県石巻市で同じ八王子市の人たちと被災地支援という同じ目的で来た者同士の出会いに胸が熱くなったそうです。彼らは八王子市立恩方第一小学校のPTAと学校側の代表者で、地元から託された本を届けに来たのでした。丁度、岩手県大槌町で移動図書館を企画している人の支援要請が入っていたのでその場で恩方第一小の方にお願いして図書の一部を大槌町に送ることができたそうです。

 畠山校長の講演会のレジュメの最初の1には、私の原点:「なぜ、私はここにいるのか?」
と書いてありました。(1)廃墟となった大川小学校を、対岸から見下ろす北上中学校の校長としての思い「もし、あの時、自分があそこ(大川小)にいたら。」と書き出し、大川小学校は全校児童108人のうち74人、教職員11人の内10人が犠牲になり、現在も児童4名が行方不明になっています。当日のその地区の死亡率は80%だった、と書いてありました。

 北上中学校長から今年3月に退職された畠山先生は現在ボランティア先進校である浦和学院高校の教諭をされており「家族全員無事でしたが、退職金全てをつぎ込んで建てた家が流されて現在、埼玉に出稼ぎに来ています。」とご挨拶されました。
 そして、フォレストの皆さんの支援活動「子育て支援」「ハンドマッサージ」「心の相談」やヘンルピングハンズ町田ステークの支援を通して被災者のニーズに寄り沿った活動を感謝されました。
 
 最初に某テレビ局が撮影したビデオを観ました。ニュースなどとは異なる長いビデオで、南三陸町の被害の様子をつぶさに見るものでした。最初、防災対策庁舎の故遠藤未希さんの避難勧告の呼びかけの声が防災マイクから流れました。小雪がちらつく美しい町に19mの津波が襲ってきて、家も畑も道路も次第に海の瓦礫と化していく様は、その中にカメラの位置から見ている何人かの人々の声も交じっていて、それはただ、呆然と「あゝ」「あゝ」「あゝ」という声で、うめき声のようであって、しかし乾いた高音で空しい響きになって私たちの耳に飛び込んできました。何人かの人々の姿も映し出されましたが、みな同様に石のように固まって呆然自失の状態でした。
 白いバンが画面右から左上に通りすぎた時など、早く、早く、早く、と私は心の中で叫んでいました。
 3F建ての防災対策庁舎で遠藤さんを含む39人の町職員が絶命し、屋上のアンテナにしがみついていた10人が生き残りました。
  
 その後の畠山先生のお話では津波50㎝で人が流され2mで家が流された、と話されました。
「地域ぐるみの防災・減災計画の再点検ならびに実践的な避難訓練の継続が重要」の中で
「津波てんでんこ」の話をされました。まず、自分の命は自分に責任がある。自分が助かれば人を助ける事も出来得る。全滅を免れるためには、まず高い場所へ逃げるが勝ちなのである、と。しかし、おじいちゃんを助けられなくて、自分が殺した、と泣いていた児童もいたそうです。南三陸町では地域全体の防災計画がなかった。山に逃げた子供たちは校庭に戻されて津波に呑まれた。率先避難者が居なかったことなどを話されました。

 反面、地域にリーダーがいて住民の繋がりが強かったところは避難生活になっても班を作って集団を統制できていた、と話されました。そうでないところは校内で怒鳴ったり、生徒の所有物を勝手に持っていったりする人もいて、知らない人の統制を取るのは難しいと話されました。

 畠山先生は以下の3点にまとめてお話されました。

1:私の原点。
2:災間(さいかん)にいる未災地の人々へ。
3:被災地の実態と未災地の課題。

被災者の国や自治体への要求(%)は次のように記されていました。

  • 住まいや再建築資金の支援     54.3
  • 医療費の緩和           46.7
  • 生活資金の支援          41.3
  • 復興方針の明確化         34.3
  • 医療福祉の充実          31.7

 2と3についての詳細は割愛させていただきましたが、こちらにきて被災地の報道がないこと、被災者にとって人々から忘れ去られることほど苦しいことはない、と話されました。

 また「ありがたい」とは「なかなか無い」という意味だと教えて下さいました。
 ありがたい、なかなか無い講演会に出席できました。新鮮な山海の幸が美味しい「追分温泉」という、いい処があります。皆さんが行楽においでになり現地でお金を使って頂くことでも、現地の経済を活性化させて復興の役に立つのです、というお話で講演を結びました。質疑応答もありました。約100名位の参加者の中からフォレストの活動に参加したい旨を申し出てきた人々がいたということを、後日畠中代表からのメールで知りました。大きな果実を祝福されたのだと思いました。
 未災地のわれら、明日は我が身か!と、改めて地域防災計画や訓練に参加することを意に決しました。
 
            (町田ステーク 広報スペシャリスト 岸野 みさを)
 
 
 

  • 昨年の春、岩手・宮城・福島と駆け足で回り、
    目に見える被災状況を実感しました。
    でも、心の中に残っている目に見えない
    深い傷跡は、どのようにすれば癒されるのか、
    そんな思いで、記事を読ませていただきました。
    文章から、何かを嗅ぎ取ろうと思いながら
    読ませていただきました。 -- 昼寝ネコ 2013-09-12 (木) 19:47:27

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