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23030801 岸野  みさを

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2023.03.08 自分史・家族史「エレミヤ書 私のまとめ」 投稿者:岸野  みさを

ソロモン王の死後(BC922)北イスラエルはヤラベアムを立てて独立し(王上11:26、12:20)ユダ族が残ってユダ王国となった。(同12:20)ベニヤミン族はユダ王国についた。ユダ王国はイスラエル王国よりも長くBC587年にバビロニアに滅ぼされるまで続いた。(王下24-20;22)北イスラエルはわずか200年の間に9回も王朝が変わり、それに対して南のユダ王国は最後までダビデの子孫が王位を継いでダビデの血統が保たれた。(王下11:1-21、14:17-22、21:19-25)北イスラエルはBC721年アッスリヤに滅ぼされた。

エレミヤは「イスラエルは、ししに追われて散った羊である。初めにアッスリヤの王がこれを食い、そして今はついにバビロンの王ネブカデレザルがその骨をかじった」(エレミヤ50:17)と言った。
「それゆえ万軍の主、イスラエルの神は、こう言われる。見よ、私はアッスリアの王を罰したように、バビロンの王とその国に罰を下す」(18)私はイスラエルを再びその牧場に帰らせる」(19)とイスラエルを滅ぼすために主が使ったアッスリヤもバビロンも悪の王国であるからには罰を下さなければならない、そしてイスラエルは再び立ち上がる、と述べた。

★リーハイと同時代のエレミヤはBC626~586年、ユダの王ヨシヤからゼデキヤまで活動した人で悲哀の預言者である。彼はエルサレムの北約5キロにある祭司の居住地アナトテで祭司ヒルキヤの子として生まれた。彼が召されたのは悔い改めの意志が無く、愚かで邪悪な人々に教えを説くためであった。よって彼の生涯は悲嘆と苦難の連続だった。

 エレミヤ1:4-5(アブラハム3:23)で
「主の言葉がわたしに臨んで言う」とあなたは生まれる前から万国の預言者として
召されていると告げられ、召命を受けた。

ジョセフ・スミスは「世の人々を教え導く召しを受けている人は全て、前世の天上の大会議において正しくそのために聖任されたのである」と教えている。

1:10ではあなたは、偶像を抜き、壊し、滅ぼし、あるいは倒してわたしの真の教えを建て、あるいは植えなさい、と宣べられた。

エレミヤは神に立ち返ることを訴えて40年間神の言葉を宣べ伝えた。

★彼はユダ王国の5人の王ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキン、エホヤキム、ゼデキヤの時代にわたつて予言の召しを果たした。善王ヨシヤ以外は主の前に悪を行った王たちである。
「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた」
(1:9)エレミヤはそれを食べた。そして、神の言葉はエレミヤの一部となつた。
★神は滅びゆくユダに多くの預言者を投入した。ハバクク、ゼパニア、リ━ハイ、オバデヤ、ナホム、がいた。

エレミヤは「目があつても見えず、耳があつても聞こえない民よ、これを聞け」
(5:21)と背信の民に悔い改めを叫ぶ。「私の声に聞き従いなさい。そうすれば、私はあなた方の神となり、あなたがたは私の民となる。私があなたがたに命じるすべての道を歩んで幸いを得なさい。(7:33)しかし彼らは聞き従わず、耳を傾けず、自分の悪い心の計りごとと強情に従って歩み悪くなるばかたりでよくはならなかつた。 

イザヤやエレミヤは度々ユダヤ人とその国家を陶器師の手にある粘土に例えて警告している。(18:5-10)

★ユダ王国初期の悪王マナセの統治時代からアッシリアとバビロニアの宗教が入ってきて
エレミヤのころには偶像礼拝を初めとする異教の儀式が国に蔓延していた。異教の偶像が神殿に立ち(エレミヤ32:34)バアル神、モレク神に小児たちが捧げられ、彼らはベンヒンノムの谷で焼き殺された。(7:18;44:19)

エレミヤは偶像礼拝の愚かさと不合理を10:2―5で「異邦の人の道に習ってはならない、
………その偶像はきゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。
それは災いをくだすことができず、また、幸いをくだす力もないからだ」
そして、6-7、

「主よあなたに並びうる者はありません。
あなたは大いなる者であり、あなたの名も
その力のために大いなる者であります。
万国の王であるあなたを、
恐れない者がありましょうか。
あなたを恐れるのは当然のことであります。(10-6-7)

しかし主はまことの神である。
生きた神であり、永遠の王である。
その怒りによって地は震い動き、
万国はその憤りに当たることができない。

…………

主はその力をもって地を造り、
その知恵をもって世界を建て、
その悟りをもって天をのべられた。
彼が声を出されると、
天に多くの水のざわめきがあり、
また地の果てから霧を立ち上がらせられる。
彼は雨のために、いなびかりをおこし、
その倉から風を取り出される。(10:10―13)

主よ、わたしは知っています。
人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。
主よ、わたしを凝らしてください。
正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。
さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。(23-24)」

と生きた真の神への力い強い証を宣べている。

ユダが犯した二つの罪は2:13に「すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、
自分でみずためを掘った。それは壊れたみずためで、水をいれておくことのできないものだ」そして18では偶像礼拝の命のない水であなたは満たされていた。22では「たといソーダーをもって自ら洗い、また多くの灰汁を用いても、あなたの悪の汚れは、なおわたしの前にある」と主なる神は言われる。

そして27で………しかし彼らが災いにあう時は『立ってわれわれを救いたまえ』という。

★5:1では「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか探してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす」と主は言われたが、エレミヤは彼らは「その顔を岩よりも固くして、悔い改めることを拒みました」(5:3)と答えた。
エレミヤはこれは「貧しい愚かな人々で主の道とおきてを知らない」ので偉い人々の所へ行って語ります、と言うのですが「彼らも同じでした」(5:5)と報告します。

エレミヤ11:1-11では主がイスラエルの民はエジプト脱出の際にイスラエルと交わされた契約のことを指摘している。「わたしはあなた方を取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。(出エジプト6:7)しかし、イスラエルの民はこの契約を破り、偽りの神に仕えていた。「見よ、わたしは災いを彼らの上に下す」(11:9-11)と主は宣べて「たとえモーセとサムエルが願ってもわたしは聞かない」(エレミヤ15:1)と言い渡された。

★「わたしは誰に語り、誰を戒めて、聞かせようか。見よ、彼らの耳は閉ざされて、聞くことができない。見よ、彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばない。(6:10)とエレミヤの苦悩は続く。8:1-3では敵は死体を暴いて骨をまき散らすという習慣を一般的に行い、それは憎悪と侮蔑の表現だった。エレミヤは8:6-7で「私は気をつけて聞いたが彼らは正しく答えなかった。その悪を悔いて、『私のしたことは何か』という者は一人もいない。彼らはみな戦場に、馳せ入る馬のように、自分の好きな道に向う。空のこうの鳥でもその時を
知り、山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。しかしわが民は主の掟を知らない」とエレミヤの葛藤は続き、22で「ギレアデに乳香があるではないか」と癒され救われることのないわが民を嘆く。

主は9:10―11で「わたしはエルサレムを荒塚とし、山犬の巣とする。またユダの町々を荒らして、住む人もない所とする」と言いエレミヤにユダの為に専門の泣き女(古代イスラエルの習慣)を雇えと言った。またこの邪悪な民の為に「祈るな」(11:14)と言った。

★エレミヤは主の家の庭に立ち、すべての民に言った。
「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる。見よ、私はこの町とそのすべての村々に、私の言った諸々の災いを下す。彼らが強情で、私の言葉に聞き従わないからである」 (19:14━15)
エレミヤはこれを聞いていた主の宮の長であるパシユルに打たれベニアミンの門にある足かせに繋がれた。

親族からも命を狙われていたエレミヤを(12:6)人々は計略を巡らして撃とうとした。
(撃つ:中東では現在でもウソをついた罰に靴底のような皮で口を叩くところがある)
人々は穴を掘って、エレミヤを捕らえようとした。
(18:18━22)
パシュルに解放されたエレミヤは主に尋ねる。「それは、私が語り、呼ばわるごとに(民は)『暴虐、滅亡』と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。もし私が『主のことは重ねて言わない、この上その名によって語ることはしない』と言えば、主の言葉が私の心にあって、燃える火のわが骨の内に閉じ込められているようで、それを押さえるのに疲れ果てて、耐えることができません」(20:7-9)
預言者が主から預かった言葉は「燃える火が骨の内に閉じ込められている」という想像を絶することなのか。ダビデも同じようにメシアについて次のように予言して言った。「私は水のように注ぎだされ、私の骨はことごとくはずれ、私の心臓はろうのように、胸の内で溶けた」(詩編22:14)

★ユダの王ヨシヤの子シャルム(エホアハズ)は父ヨシヤについで王となったがついにこの所から出て行った。主は彼についてこう言われる、「彼は再びここに帰らない。彼はその捕らえ行かれた所で死に、再びこの地を見ない。(22:11~12)
不義をもってその家を建て、不法をもってその高殿を造り、隣人を雇って何も与えず、その賃金を払わない者は災いである。………あなたの父は飲み食いし、公平と正義を行って、幸いを得たのではないか。彼は貧しい人と乏しい人の訴えを正して幸いを得た。こうすることが私を知ることではないかと主は言われる。しかし、あなたは目も心も、不正な利益のためにのみ用い、罪なき者の血を流そうとし、圧政と暴虐を行おうとする。それゆえ、主はユダの王ヨシヤの子エホヤキムについてこう言われる。人々は『悲しいかな、わが兄』『悲しいかなわが姉』と言って彼のために嘆かない。また『悲しいかな、主君よ』『悲しいかな、陛下よ』と言って嘆かない。ろばが埋められるように、彼は葬られる。引かれて行って、エルサレムの門の外に投げ捨てられる」(22:11―19)この預言のためにエレミヤは投獄された。
そして、この預言は成就したのだった。(王下23:31-34)

エレミヤは背信の民に悔い改めを叫び、さもなくばエルサレムは滅びるとリーハイと同じ預言をしたのだ。そして何を頼りにするかによって「呪い」になるか「祝福」になるかが決まると言った。

「主はこう言われる、おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は呪われる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩路にいる。

おおよそ主に頼り、主を頼みとする人は幸いである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川に伸ばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ。」(17:5-8)
★預言者はいつも偽りの預言者と闘わなければならない。(23:13-31)

エレミヤは23章の終りの方で、ユダヤ人宗教指導者や祭司、預言者たちの罪を指摘している。預言者も祭司も神を汚している(11)
バアルの名によって預言し、民を誤りに導いた。(13)預言者たちは姦淫を行い、うそを言い、悪人をかくまっている。神の目に彼らはソドムとゴモラのように悪い(14)主の言葉ではなく、自分の言葉を語る。(16)悪人に向って平安が得られる、それをしても何も悪くない、と言う。(17)自分で務めに立ち、啓示がないのに預言する。(21)主の言葉を受けないのに「主は言いたもう」と言う。(31)

しかし、この中に「正しい枝」(イエス・キリスト)がイスラエルの王となる、と救い主に対する預言をしている。(3-6)

★末日の集合の預言。
「主は言われる。見よ、私がわが民イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る。主がこれを言われる。私は彼らを、その先祖に与えた地に帰らせ、彼らにこれを保たせる」(30:3)

エレミヤ書23:3-8では

わたしの群の残こった者を、追いやったすべての地から集め、再びこれをそのとおりに帰えらせよう。彼らは子を産んでその数が多くなる。わたしはこれを養しなう牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる。

主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。

その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。

主は言いわれる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地から導びき出された主は生きておられる』とまた言わないで、

『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追やられた地から導びき出された神は生きておられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる」

★つまり、エレミヤはこの末日の集合はモーセがイスラエル人をエジプトから導き出したものよりも世界的に大規模なものになる、と預言している。ブルース・R・マッコンキー長老は「イスラエルの集合は、第一に末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗することを意味している」と。現在この預言は成就しつつある。

★エレミヤの少し前のホセアがイスラエルにどの様な警告を発していたのか、北王国がアッスリヤに倒されたのを見たホセアについて少し触れてみたい。ホセアは BC760年―720年頃イザヤ、ミカ、アモスと同時代北王国に向けられたメッセージで、主はご自分とイスラエルの聖約関係を結婚関係に例えた。1章から3章迄ホセアは主を現わし、ゴメルはイスラエルを現わしている。偶像礼拝という忌まわしい罪を淫行と言った。4章から5章でイスラエルとユダの罪を告発している。7章から10章ではイスラエルは自分の蒔いたものを刈り取る、と警告している。主のメッセージが要約されているのは収穫の律法である。「あなたがたは自分のために正義をまき、慈しみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て、救いを雨のように、あなた方に降り注がれる。あなた方は悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた。これはあなた方が自分の戦車を頼み、勇士の多いことを頼んだためである」(10:12-13)

「エフライム(の罪)は、もろもろの民の中に入り混じる。エフライムは火にかけて、かえさない菓子である(生焼けで底が焦げるので返すことができない)(ホセア7:8)
エフライムは知恵のない愚かな鳩のようだ。(7:11)彼らは風をまいてつむじ風を刈り取る。
(8:7)彼らはひとりさまよう野ろばのようにアッスリヤに登って行った。(8:9)
わたしはイスラエルを荒野のぶどうのように見、あなた方の先祖たちを、いちじくの木の初めに結んだ初なりのように見た。(ぶどうもいちじくも上等な果物である)ところが、彼らはバアル・ペオルに行き、身をバアルに委ね、彼らが愛したものと同じように憎むべき者となった。(9:10)エフライムの栄光は、鳥のように飛び去る。(エフライムの栄光は滅び去る)(9:11)エフライムの罪は実のない葡萄の木(10:1)英語欽定訳では実を結ぶ茂った葡萄の木ではなく、実のない葡萄の木と訳してある。

★それゆえ、裁きは畑のうねの毒草のように現れる。(10:4)エフライムはひねもす風を牧し、東風を追い、偽りと暴虐とを増し加え、アッスリヤと取引をなし、油をエジプトに送った。(12:1)(イスラエルは実体のないものを信じ、アッスリヤとエジプトと同盟を得たいと思った)それゆえ彼らは朝の霧のように、すみやかに消え失せる露のように、打ち場から風に吹き去られるもみがらのように、また窓から出て行く煙のようになる。(13:3)
しかし、アッスリヤに捕らえられても完全に滅ぼすことは許さない。(11:8-12)

★北イスラエル王国(エフライム)はBC721年にアッスリヤによって陥落し27290人が(サルゴン2世の碑文による)捕囚となった。彼らはハラン、ゴザンの川ハボルのほとり、および、メディアの町々(王下17:3-6;18:11)に移され、北の地へ向かった。やがて、消息を絶ち歴史上から姿を消した。失われた10士族と呼ばれているが終りの時に戻ってくる。

★似たような名前で分かりずらい「エホヤキムとエホヤキン(エコニア)

エホヤキム Jehoiakim 
ユダの王(BC609―598年在位)で、ヨシヤ王の次男(代上3:15)である。初めの名はエリヤキムであったが、エジプト王のパロ・ネコは、兄のエホアハズを廃し、エリヤキムをエホヤキムと改名させて、ユダの王にした。(王下23:34)彼は25歳で即位し、国民に重税を課して、エジプト王ネコに納めた。(王下23:31―36)しかし、BC605年バビロン王のネブカデネザルがネコを破った後は、彼はバビロンに貢を収めるようになった。(王下24:1)、このようなわけで彼の治世は罪悪に満ちたものであり、エレミヤによって非難されたが、彼はエレミヤの預言の巻き物を炉に投げ込んで焼き捨てた。(エレ36:20-31)エレミヤは彼の悲惨な死について預言した。

★エホヤキン(エコニヤ)Jehoiachin―Jeconiah 
エホヤキムの子でエコニヤ(エレ24:1)またコニヤ(エレ22:24)とも呼ばれた。彼はエホヤキムの後を継いでユダの王となったが、(BC598年)バビロン王ネブカデネザルはエルサレムを攻め落としたので彼の在位はわずかに3か月であった。こうしてエホヤキンと共に第1回捕囚民がバビロンへ移された。(王下24:8-16)しかし、エビルメロダクが新しくバビロン王となったとき、彼は厚遇を受けている。(王下25:27-30)

悪は必ず罰せられるということを理解しなければならなかったのは、とりわけ南のユダ王国の民であった。彼らはアッスリヤによる北王国の崩壊を見、彼ら自身はイザヤの言葉に従ったため、アッスリヤ軍から奇跡的に救われたのである。(王下18-19の注釈(12-20から12-31;特別講座D参照)

 神は人を偏り見ることはない、つまりひいきはしないとはっきり教えておられる。(使徒10:34)従順な者は祝福を受け、罪悪が熟したものは祝福を失うのである。ニーファイが兄弟に言ったように、カナン人は自分たちの罪のために滅びたのであり、ユダヤ人が彼らのようであれば同じ運命をたどるのである。(レビ18:24-28;1ニーファイ17:32-35)
しかし、ユダは何の教訓も学ばなかった。(旧約聖書生徒用資料P250 G-3)
アッスリヤが倒れ、新帝国のバビロンが地歩を固めるまでの間、圧迫は一時的に弱まったが、ユダはすぐさま北の姉妹国と同様、偶像礼拝と邪悪にふけり、その有様は主が「マナセが人々を誘って悪を行ったことは、主がイスラエルの人々の前に滅ぼされた国々の民よりもはなはだしかった」(王下21:9)と言われたほどであった。
ユダはそのような状態で、神の守りを得るという約束を失った。かたやバビロンは、世界制覇の野望に燃えていた。
主は民に預言者を遣わして、眼前の破滅を警告された。エレミヤ、リーハイその他多くの人が召された。(1ニーファイ1:4)が、彼らの警告は聞かれなかった。

 ヨシヤ王(BC640―609)のもとで改革の最後の試みがなされた。(王下22-23章)が運動は短命で、民はじきにエホバを捨てていた。ユダの政治指導者は、エジプトに頼るなというエレミヤの度重なる忠告にもかかわらず、バビロンの新興勢力に対抗してエジプトの保護を求めた。こうしてイスラエルの民の間に第2の悲劇が進行して行ったのである。
(旧約聖書生徒用資料P250)

★エレミヤは人間の本性の奥にひそむところの、偽りと強情、神に背きつつ自己を主張する悪い傾向が根強く存在することを見て取っている。(17-18章、5:23)そこで人間は外側ではなく、その内面の心を深く探る神によって、厳しい審判を受けることを免れ得ない。
(聖書辞典より)

★「ラメテーション(lamentation 日本聖書協会口語訳では『哀歌』と訳されている)とは、「深い悲しみで涙を流すこと、あるいは泣くこと」の意味である。伝統的にユダヤ人は亡くなった親戚や友人のために哀歌を書き、歌った。旧約聖書のこの小さな書には、エレミヤが詩歌の形式で書き、エルサレムと神殿とユダの民のための哀歌、すなわち「嘆き」と「哀しみ」が収められている。(旧約聖書生徒用学習ガイドP,166抜粋)

聖書辞典では1:1がヘブライ語の「エーカー」(あゝ 悲しいことだ)で始まっているところから「哀歌」と呼ばれ、さらに「キノート」(悲しい歌)とも呼ばれている。
5章以外の4つの章はヘブライ語アルファベット歌の形式をとっている。著作の時代はエルサレム滅亡直後であると思われる。

哀歌の悩みの内にも主の恵みを思い起こし(3-1-24)反省しつつ主の慈しみへと信頼を寄せる(3-25-66)と解説されている。私が一番衝撃を受けたのは下記である。

わが民の君たちは雪より清らかに乳よりも白く、そのからだは、さんごよりも赤く、姿の美しさはサファイヤのようであった。
今はその顔はすすよりも黒く、町の中にいても人に知られず、その皮膚は縮んで骨につき、かわいて枯れ木のようになった。
つるぎで殺される者は、飢えて死ぬ者よりもさいわいである。彼らは田畑の産物の欠乏によって、刺された者のよう衰え行くからである。
わが民の娘の滅びる時には情け深い女たちさえも、手ずから自分の子どもを煮て、それを食物とした。(4:7-10)

捕囚は3回行われ(BC597、586、581)このおぞましい予言は3度目の攻撃でエルサレムが1年半包囲されて食物が無くなった時に起こった。
哀歌はエルサレムの陥落について
1、シオンの荒廃。
2、主の怒りによってもたらされるシオンの悲しみ。
3、憐みを求めるシオン。
4、過去と現在との対比。
5、救いを求めるシオン。
上記5つの異なった観点から記述している。

★36章は主がエレミヤに語った全ての言葉を巻物に記しユダの民に読み上げなさい、と命じた。ユダの民がそれを聴いて悔い改め許しを得る為であった。
こうしてネリヤの子バルクがエレミヤの口述に従って主がお告げになつた言葉をことごとく巻物に書き記し民の前で読みあげた。司たちが王の前で読みあげたが王は3段か4段まで聞いて、炉の中に投げ入れ焼き払った。こうして王は、悔い改めの機会を永久に失ってしまった。主は再び巻物に記すことを命じ、王エホヤキムの子孫には王になる者は一人もいない、私はこの国に罰を下す、と厳命したのだ。

★エレミヤ書の著者はエレミヤ自身と彼の書記バルクの著した部分、およびその他の補筆よりなっている。エレミヤ自身の部分は第一人称で記録されている。(1-25章)バルクの手によるもの及び他の補修者の筆による部分は第3人称で録されている(26章から)特に52章などは、明らかに王下24:18-25、30からの引用による補遺であり、エレミヤ、バルク以外に本書の編集に手を加えた者のあったことを示している。現在のエレミヤ書が70人訳よりも約8分の1長いことも増補の証拠とみられている。

「内容」エレミヤ自身の部分(1-25章)1章エレミヤの召命、2-6章ユダの罪と審判に関する初期の預言、7-10章神殿と宗教的腐敗への糾弾、11章ヨシヤ王の宗教改革、12-20章滅亡の預言、21-25章王たち宗教家たち、捕囚の民への預言。(聖書辞典より)

 主としてバルクの手によるエレミヤの生涯と活動(26-45章)26-28章 エルサレム滅亡の預言。29章 捕囚の民への手紙。30-31章 慰めの書・新しい契約。32-38章 エルサレム滅亡直前の事件と預言。39-45章 エルサレム滅亡とその後の事件。エジプト移住。46-51章 諸外国に対する教え。52章 エルサレム滅亡と捕囚についての記録。
(聖書辞典より)

★こうしてエレミヤの歴史的記述は44章で終わっている。エレミヤは(主は建設するという意味)第1回バビロン捕囚(BC587年)の際には亡国のエルサレムに留まり、祖国再建のために努力を続けるが、やがて親エジプト派によってエジプトに連れて行かれ、そこで殉教したと伝えられる。(40-44章)

  • 岸野姉妹、長編の素晴らしい教え、ありがとうございます -- 塚原俊英 2023-03-16 (木) 06:52:20

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