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2023.04.17 自分史・家族史「私の家族」 投稿者:オーマン 康子

 私たち家族はこれまでに沖縄、ハワイ、東京、マレーシアにおける生活を経験し、さらにカンザス州そして今はバージニア州で生活していますが、私たちの子供たちは生まれた時から、異なった土地、文化、人々との関わりを持ちながら生活し成長してきました。それ故に、常に新しい友達を作り、そして交流してきたことで、新たに友達を作ることにはたけていますし、見知らぬ人への仲間入りには抵抗なくはいって行けます。しかし、その反面、子供にとっては3,4年間住み慣れた土地を離れて、新たな場所への移動を続けてきましたので、特別に自分の故郷がどこであり、自分には幼児期からのいわゆる幼友達というのはもっていません。子供たちにとってこの世の全ての人々が彼らの友達であり、生活している場所が彼らの故郷でもあります。それが主人が求めていた家族でもあります。

この世に生を受けてからどう生きていくべきかを身をもって教え、生活してきたかとも思います。それから子供にはそれぞれ生まれ持って受け継いでいる性格というものが存在していると思いますが、その性格を良いものへと形作るには家庭環境が大変重要でもあるように思えます。また世の中で何が大切であるのかを両親は教え導く責任があり、子供の判断を誤りのないように導く責任をも持っていると思います。

主人は常に子供への教育は親の責任であるとし、そのために色々な方面から話してきました。その例として、子供には常に色々な機会を与えてあげることだということで、たとえ、幼い子供で理解できないのではないかと大人が思っていても子供は必ずやなにがしかを学び、成長してからでもおぼえているはずだということです。

主人は子供が幼いころよく子供と手をつないで道を歩いているときでも空を見上げれば、空にみえる雲や空の青さについてはなしてきかせていました。目にするものにそれは何であるのか、それについての理由、説明をよくしていました。そしてわからないことがあれば、自分でも調べて理解するようにと子供によく言っていましたので、我が家の子供はわからないことがあれば、その知識のある教師、大人、あるいは本から学び理解することにしていました。

我が家では常に教育の大切さについてはなしていました。ただそれは勉強しなさいというだけのことではなく、なぜ勉強することが大切なのかを話して聞かせました。小、中学校時代には学んだことが本当に理解しているかを確かめるために宿題というのがあるので、必ず宿題はさせました。もし、その宿題で理解できないところがあれば、そのままにしておかないこともいいきかせていました。子供は必ず学校から戻るとすぐに宿題をしてからでないと遊べないことをよくしっていましたので、近所の子供たちが遊びに誘っても宿題が終わらなければ遊べないと話し、近所の子供たちは待たざるを得ないことが度々ありました.

特に3女は低学年の時でも よくそれを理解していたように思います。近所の子供を待たせておく、近所の子供もそれについて理解してくれていましたので、遊ぶときは思いっきり遊んでいたように思います。ルールに従うことやチャレンジ精神を我が家の子供たちに持たせていたと思います。
子供が経験した例をいくつか述べてみます。

長女の例。
長女は読書が大好きな子でした。ある日、図書館の子供セクションへ連れていき、そこにある本には娘の知らないことを教えてくれるものが沢山あることを述べて、それらの本を読んで学び取るように話しました。ただ本人には一回につき何冊借りられかについては話してありませんでした。娘は棚にある本を端から眺めて行き、自分が読みたい本を次々引き出していきました。そして床には山ほどの本が集まっていました。娘本人はそれらの本を全部読みたいがために棚からひきだしていたのですが、当然、図書館員は困惑して親である私たちに子供の面倒をよく見るようにと言ってきました。

 本当は娘は何も悪いことをしていませんでしたが、ただ少し話しておけばこのような結果にはならなかったかもしれません。

長男の例。
長男は理科が大好きな子でした。丁度ハワイに住んでいたころはプライマリーに入って間もないころで、教師が生き物についてレッスンをするので、ゴキブリを容器に入れてクラスにもってきました。さてレッスンが終わって、その教師は誰かほしい人はと尋ねた時、一番に息子が名乗りを上げてそのゴキブリをもらいうけました。それを教会の集会が終わったとき、大事そうにして私に見せました。私からすればそんなものをもらってきてとおもいましたが、本人は大変に興味をもっていたのです。ハワイではゴキブリは家の中には入ってこないですが、外にいけば、地面のあちらこちらにいます。また同じ虫の話で恐縮ですが、その長男が小1のとき、日本にいましたので、地元の小学校に通学させていただきました。長男は休み時間のベルが鳴ったのも気づかず?その辺のことはわかりませんが、クラスのお友達は皆クラスに戻っていきました。教師はすぐに長男がまだクラスに戻っていないことに気づいて尋ねたところ、虫を追いかけていたとクラスメートは告げました。本人はその虫がどこへどのようにしていくのか見ていたとのことでした。私たち親は彼を責めませんでした。彼は興味をもって学ぼうとしていただけのこと。ただ学校にも決まりというのがあるから、それを守ることは大事とだけいっておきました。

次男の例。
次男はとても気持ちが優しい子でした。それとともに大変なチャレンジ精神もあり、何事にもチャレンジしていきました。たとえ、それが無理であるかのようであったとしても実行していきました。彼が9歳のころ、私たちはインドネシアに旅行しました。バリ島ではオーストラリア人が経営しているバンジージャンプというのがあり、父親がそれに挑んでジャンプしたのを見たあとに、息子は僕もやってみたいといってきました。かなり高いところから飛び降りるのですから、私自身は不安でした。しかし本人の希望でもあったのでそうさせました。ジャンプは見事成功しました。従業員から確かにジャンプしたという確認証をいただきました。そして彼らが言うには、今までジャンプした中で息子が最年少であることを告げました。また大人ではなく小さな子供が行ったことに大変驚いていました。

次女の例。
次女はやはりとても気持ちの優しい子で争いごとは一切しない子でした。我が家では彼女のことをピースメーカーといっていました。いつも穏やかで何事であっても争いを好まない娘でした。彼女は訴えたいことや、気に入らないことがあっても常に穏やかで物静かに話していました。教会の教えの中の争いごとをしないで全ての人と平和に生活することをまもっています。彼女自身も読書や文章を書くことは大好きでしたので、スタンフォード大の青少年のためのプログラムに参加させたところ、喜んで文章を書いては添削していただいた経験を持っています。

3女の例。
3女は何事も自ら進んで行う子供でした。教会のプログラムで若い女性は夏に開拓者が行ったのと同じに荷車をひいてキャンプをしますが、彼女が参加した年は丁度毎日が大雨でした。参加した中で彼女だけが一度も不平不満を言わずにずぶぬれになりながらもその工程を歩き通したと、指導者は話してくださいました。
また高校時代はチアリーダーに入っていました。彼女は常に4,5人に支えられて演技をしていたのですが、ある日の練習時に下で娘を支えているべき仲間のミスで娘は床へ落ちてしまい足を折ってしまい、直ぐに病院へ駆けつけ手術ということになってしまいました。ですから練習は不可能でしたので、治るまでは練習に来なくてもよいと言われていました。ところが娘は練習の時間には姿を見せて、コーチが他のグループにどうすべきかの指示に耳を傾けていました。

 すべての経験は教育の一環であり、それらの経験はこの世に私たちが生活していくに必要なことにあるのです。そしてこれが私たち家族の生き方になっていると思います。ここに記したことは子供が経験したごくごくわずかなものです。彼らの全てを書き記し、親である私たちについても 書くとしたら、文章内容はかなりの量となり、何ページにもなるので、この辺で失礼します。一つ付け加えるとすれば、主人は子供が誕生したら日本語で接することを希望してきましたので、そのようにしてきました。子供は日本語の会話には不自由ありません。

 全てを書き記すのは不可能ですので、子供のごく一部を書いてみました。ここに書き記した中でこれも私たち家族の持つ考えの一つ、我が家の教育方針がいくらかご理解していただけたものと思います。

  • 個性豊かな神の子たちとかけがえのない豊かな生活を過ごされてきたのですね。サクセスストーリーというかアメリカンドリームというか天晴です。そこにはご両親の深い愛情と
    何がベストかという深慮がありましたね。行動(生活)を伴うその選びは鮮やかでめったに模倣できるものではありません。 -- 岸野 みさを 2023-04-18 (火) 15:29:19

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