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愛しいわが娘 聰子よ

あなたが 前世から 現世へ
旅立った日のことを
お話しましょうか

私の定めた 境界の幕が遮って
思い出すことはできないでしょう

あなたの 前世に於ける選びは
義なる わたしの律法に適い
ついに 「高潔で偉大な者たち」に召されました
わたしの神命を 地上で果たすべく

あなたの頭に わたしが聖任しました


やがて めぐりくる春夏秋冬がいくたび
女学生のあなたは 大正ロマンの残像の中で 
語学に 文学に 躍動していきました
それをあなたの作品の中に見ることができます

  山あいの小徑を共に歩むとき海山空はわが為にありき

  咲きいでし春を飾れるこの花をいたくな摘みそ心なき人

  井戸端に素足で下りて足洗う散歩の疲れ一時に失せり

  絵を見れば心楽しき楽聞けばなほし嬉しき我は幸なり

  この畑の向こうに農家の屋根みえて牡牛が鳴けば絶えて音なし

  わが歌はわが涙なり嬉しきに悲しきにつと流れいずれば


そして千九百四十五年三月九日から十日の
東京大空襲を次のように記録しています

  「……。しかし間もなく藤吉の転勤が決まり一月中旬には名古屋へ赴任 していった。私は乳児と幼児と三人でこの目黒に残されてしまった。時々 夫は名古屋から帰ってきたが三月九日、丁度彼が帰宅していた時、その夜 大空襲があり、本所方面が全滅となった。この時の空襲は、高台だった下 目黒の家からよく見えた。東北の空は真赤で、小さな日本の戦闘機二つ三 つ、蠅がとんでいるように小さく見えた。探照灯の光と小さな戦闘機と真 赤な火事の空が今も目に残っている。その空の明るさは灯火管制で暗い目 黒の家で、新聞の活字が見える程だった。翌日、本所で焼け出された家族 が、うちの向かいの二階にとりあえず泊まることになったが、この空襲の 恐ろしさで、私は乳幼児を抱えて目黒に頑張ることが容易なことではない と覚った。」(「あしあと」P二十八)


千九百五十六年三月
ポール・C・アンドラス伝道部長は
アメリカのMIAで使用していた
「レクリェーション歌集」の翻訳をあなたに与えました

 「その頃浦和から引っ越してきた父は『わしは編集をするから訳の方は  やってくれ』と申します。もともと古い讃美歌集は父が二十歳の頃早稲田 大学在学中にほとんど訳したもので、メロディーを長老が口ずさんで、そ れに合わせて訳したとのことでした。……
  二百十三番の『見捨てたもうな』は現在のドゥエイン・N・アンダーセ ン神殿長婦人の父上が非常な迫害と苦難に会っていた時作詞作曲されたも のだと、昨年神殿が出来てから伺い、古い歌を省かないで良かったと思い ました。讃美歌は人を慰め、励まし、疲れを癒し、証を注いでくれる霊感 の歌と思います。名古屋で最初のMIAの小さい歌集を出す時、今は東京
 神殿宣教師の金剛長老が原文に忠実にと忠告して下さったことを思い出  し、その精神を守りました。発想の展開が耳馴れない時でも作詞者の思い を受け継ぐ気持ちで敢えてそのままをりました。ただ曲の切れ目と言葉の 切れ目を考えないと、民謡ステンカラージンでいつも妙に思うのが『…今 湧くそしり』を歌うと『今は糞しり』と聞こえるのです。そんなことか
 ら、歌を訳すときはまず曲を覚えて、歌いながら言葉を入れるようにしま した。とても難しいのと、十六番『主よわれと共に』や百七十八番『み前 にぬかずき』等のように比較的やり易いものとがありました。旧訳の讃美 歌は大正四年十二月(千九百十五年)発行され、教会が中断されていたも のの、その後昭和三十五年まで(千九百六十年)末日聖徒に親しまれてい たので、新しく変わることは人々の中には抵抗もあったと思います。私は みたまの助けが必要でいつもお祈りをしていましたので、あの時の一年ば かりは本当に充実した気持ちでした。」(千九百八十一年「聖徒の道」日 本伝道再開八十周年記念号「あしあと」P百七十八―百八十一)

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