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2013.07.07 エッセイ「悔い改める」 投稿者:松木 幹雄

悔い改める

松木 幹雄

 日曜の聖餐会は、私たち自身の昨日までの一週間を振り返り悔い改めるためにあります。
 聖句ガイドより悔い改めには、「真の悔い改めは、神への愛と神の戒めに従いたいという心からの望みの結果として生じる。自分の行いに責任の取れる人はだれでも罪を犯す。したがって、救いに向かって成長していくには悔い改めなければならない。
 人間は、どんなに気をつけていても知らぬ間に過ちを犯しています。知らぬ間にということを「無始」といいます。無始とは、始めが無いと書いてあります。始めがないということは、いつとはなしに知らぬ間にということです。
 仏教の懺悔の文のはじめに「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)皆無無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)」とあります。この意味は、「私が昔から造るところの悪業(悪い行為)は、みな無始(いつとはなしに知らぬ間に)の貪(とん:むさぼり)瞋(じん:いかり)痴(ち:愚痴)に由る」いうことです。この知らぬ間に犯している三毒の過ちを気が付いたときに心の垢を取り除き、心を清めていくことができるのが、聖餐会の場でもあります。

 通勤電車に一時間半乗っていますが、最近、特に感じますのが、混雑する電車内での姿です。スマートフォンやタブレットに夢中になっている人、パソコンを操作しながらいる人。
 そんな姿を大勢みかけます。まして、操作する右手のひじが時々となりの席の人にあたっても平気でいる。これらは、通信の発達により便利になったかわり、人間としての思いやりの心がなくなってきている現象です。自分さえ良ければいい。自分が一番かわいい、自分が一番大事。たぶん、車内で読書している私もこれらに怒っていますが似たようなものでしょう。
 本当の自分を大切にするということは、知らぬ間に犯している過ちに気が付いたとき、その心のごみや垢を取り除ききれいに清めることです。そうすると、だんだん人相もよくなっていくことでしょう。
 
 
 
 
 

  • 現代人は、人工的なコミュニケーションに馴らされ、
    その媒介手段として様々なIT機器があるのだと思います。
    おっしゃるように、ネット経由で情報のやりとりをし、
    コミュニケーションを保っているはずなのに、
    結局は自分の殻に閉じこもっている人が多いと
    思われるのは、なんとも不思議な現象ですね。 -- 昼寝ネコ 2013-07-07 (日) 22:11:35

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