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2014.02.25 自分史・家族史「50年前の私の改宗」 投稿者:岸野 みさを

The Best of Haydn
 
50年前の私の改宗 2014            
 
 
岸野 みさを 
 

 幼時のころ初めて目にした絵本は「きのこのきのすけ君」という本で、茶色の大きなきのこの絵を何となく覚えている。次は「母を訪ねて3000里」。父の妹であるおばが読んでくれて、聞いていた私はポロポロ涙を流していたという。(ここまでは「記憶力」にも書いてある)その次は終戦後、そのおばが進駐軍からもらったという単行本サイズの「聖書」だった。へりが赤く塗られていた。聖書とともにペンダントがあって、十字架上のキリストがペンダントトップにあった。なんだろう?しげしげと見た記憶はあるがそれがキリストであると聞いたかも知れないが、6歳頃の私には何も分からなかった。今思えばいきなりキリストの贖罪を目にしたことになる。
 そのへりの赤い聖書を開いてみたのは高校生になってからで、英語の教師が授業で聖書を使ってからだった。「Ask、and it shall be given you;seek、and ye Shall find ;knock、and it shall be opened unto you」(マタイ7:7)「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう」初めて学んだ聖句だった。何かが強く心を打ったが、当時の私には、何事も自分から主体性を持って積極的にやれば道は開けるというように理解したと思う。
 私の趣味は読書だった。テレビの無い古き良き時代、その頃までに「少年少女世界文学全集」などを読んだ。今もはっきりと記憶にあるのはシェンケ-ビッチの歴史小説「クオ、ヴァディス」(主よ、いずこへ行き給う)である。ローマ皇帝暴君ネロの迫害に耐え切れなくなったペテロがローマからアッピア街道を逃げていく途中、十字架に架けられて死んだ筈のキリストに出会う。恐れ慄いたペテロは「クオ、ヴァディス、ドミネ?」と尋ねた。キリストは「私はもう一度十字架に架けられに行く」と答えた。悔恨に苛まれたペテロは来た道をローマに戻り自らの使命を果たした。地上に於ける王国の鍵を持つ者として(マタイ16:13-18)キリストから厳命されていた「私の羊を養いなさい」(ヨハネ21:15―17)を全うした。その後捉えられて、キリストと同じ方法では恐れ多いと逆さ十字架に架けられて死んだ。

 1963年の夏頃、私は吉祥寺駅前で宣教師から1枚のチラシをもらった。そこには末日聖徒イエス・キリスト教会と書いてあった。その週の日曜日、暇だったのでチラシにある地図を見ながら教会へ行ってみた。礼拝堂に入ると不思議な雰囲気を感じた。人々が何名かあちこちで静かに話しているのだが、何ともいえない雰囲気である。今ではそれが「霊的雰囲気」だったということが分かる。宣教師の長老たちが近づいてきて、すぐにレッスンの約束を取った。何が何だかわからないままに都合のよい日を約束し、「モルモン経」(現在のモルモン書)をプレゼントされた。レッスンは姉妹宣教師だった。姉妹宣教師が次のレッスンまで何ページまで読んできてくださいといわれて、読むには読むがほとんど理解できなかったように思う。つまり「聖霊の力」によってモルモン書が真実である、(モロナイ10:4-5)ことを確信するには至らなかったが、ジョセフ・スミスの見神については、はっきりと理解しジョセフ・スミスが天父と御子イエス・キリストにまみえた事実を証することができた。

 1963年11月22日第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスで暗殺された。23日、初の日米間テレビ衛星中継に衝撃映像が飛び込んできた。吉祥寺のアーケード街で長老たちに会ったとき「どうしてアメリカにはこんな犯罪が起こるの?」と質問すると彼らは「どうしてなんだろう」とショックを隠さず、自国の擁護もしなかった。

 1964年10月23日東京オリンピックの日本女子バレー金メダル獲得を職場の友人たちと嬉々として観戦した。

 当時の求道者の期間は一年ぐらいが普通だったが、宣教師から福音を学び、集会にも出席して皆さんのお話を聞いている中で、蒔かれた御言葉の種が少しずつ成長していった。そしてモルモン書が神の御言葉であり、聖書と並ぶ「イエスキリストに対するもう一つの証」であることを確信することができるようになった。そして、同年11月8日バプテスマの水をくぐった。
 水から上がったときの清々しさは格別で、いままでに味わったことのない体験だった。それは「真心からの悔い改めにより、過去の自分を葬り、古き人は、死に預かるバプテスマによって彼キリストとともに葬られ、新たな霊の人として再び生まれた」ということだと分かる。「すなわち、私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。それはキリストが父の栄光によって、死人の中から甦らされたように、私たちもまた、新しい命に生きるためである。」(ローマ6:4、6)
 この新しい命に生まれ、生きるという霊的再生はその後の人生の順境や逆境により度々繰り返して経験し、その都度、成長を遂げることができたと思う。しかしキリストのようになる資質と力を得られるようになるには50年間の歳月を費やしてもまだ、途上にあって残り時間は少ないというのに、完成は遠く思える。
 この地上での生活は神にお会いする用意をする「試しの期間」(アルマ12:24)であることを知っている。エズラ・タフト・ベンソン大管長が「人生にあって大いなる試しは神に従うことである」と勧告された。
 いっしょにバプテスマを受けたA姉妹はしばらくすると教会に来なくなった。深い悲しみを感じた。「神のみこころに添うた悲しみ」(コリント第2:7:10)を感じた。数え切れない教会員が、バプテスマを受け、キリストのみ名を引き受けることを誓約した(教義と聖約20:37)麗しい男女がこの世の雑踏の中に消えて行ってしまった。

 今は夫の岸野陽(ひろし)は私より早く、同年4月にバプテスマを受けた。初めての出会いは支部長室の隣にある書記室だった。ドアーを開けると座ってギターを弾いていたB兄弟の横で歌っていた。目が合った。「あっ、すみません」集会中だったのか、私はあわててドアーを閉めた。他の兄弟姉妹との初対面は覚えていないのになぜかはっきりとその光景が今も記憶に残っている。ギターを弾いていた兄弟と、私と同じ日時にバプテスマを受けた姉妹とは共に教会から離れて行った。理由は分からない。

 当時の東京西支部の建物は現在のステークセンターの建物の前の建物で、岸野兄弟が水彩画に描いてあったのでその姿が残っている。
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 60年代の教会の代表的な建築様式で美しい教会堂だった。教会堂の完成とともに大勢の改宗者が現れ、私や岸野兄弟はその一団の中の一人であったことが後で知らされた。その前は借家の暗いところで集会が開かれていたという。
 当時火曜日の夜は扶助協会と支部長会の集会があり、終わると入り口の支部長室と一番奥の扶助協会室のドアーが開いて全員未婚の男女が楽しく談笑するひと時があった。

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 島田邦雄支部長から菊地良彦支部長に変ると岸野兄弟と私はフェローシップ委員に召された。しばらくすると岸野兄弟はMIA(相互発達協会)の会長、私は書記に召されて共に働くようになった。そして今でも語り継がれる木曜日のMIA全盛時代と共に青春を謳歌したのである。
 MIAの活動はスポーツ、音楽、社交ダンス、演劇、絵画、スピーチ、タレントショーなどが活発で私は何故か、スピーチのクラスの教師をしていた。ジャネット・平野姉妹から「開拓者記念祭」のための本格的フォークダンスを教えてもらったときは、運動量が多くてヘトヘトになり、これはスポーツだ、と思った。1966年11月12日の演劇、「リアホナ」で岸野兄弟がニーファイを好演した。
 リーハイは雨宮保由兄弟、サライヤは小泉昭子姉妹(2011.1.20他界)だった。

 スピーチコンテストの司会をした時の原稿が見つかった。肝心の話者のスピーチの内容が記録されていないとか、審査基準が残っていないとか、審査結果が残っていないなどで、記録とは名ばかりのものであるが、懐かしい人々の名前があったので、ここに記録する。

 兄弟姉妹の皆さんこんばんは。
 スピーチは三者で成り立つことをご存じですか?
第一に話そのもの。第二に話し手。第三に聞き手。これら三者が関係して初めてスピーチが成り立ちます。今日は雨にも負けず、大勢の皆さんが出席して下さりありがとうございます。皆さんの一人ひとりが審査員です。話し手のスピーチを最終的に評価するのは聞き手であるあなた方一人ひとりです。「理想の人」「若き日のために」「母」この三つが今日のコンテストの主題です。お手元の採点表に点数を記入してください。また、話し手があなたの心に強く訴えましたら、どうぞ拍手を送ってください。では、あなた方を代表する
審査員をご紹介します。……(記録されていない)
 以上でございますが、私、司会の田中みさを姉妹です。よろしくお願い致します。
 トップバッターは法政大学で法律を学んでおり、MIAでは演劇部で活躍している多感な青年、感受性の強い大きな目をした小堀訓男兄弟です。テーマは「若き日のために」どうぞ!……(スピーチの内容は記録されていない)
小堀兄弟ありがとうございました。皆さんも遠い幼き日を思い出しましたでしょうか?
 次は母について特別な体験を持っておられる女子高校生の種野淑子姉妹どうぞ!……(スピーチの内容は記録されていない)種野姉妹ありがとうございました。
 次の話者はメガネをかけてニコニコしている兄弟です。これだけでは分かりませんね。彼はアメリカオレゴン州で農業の勉強をして、今年の4月に日本に戻りました渡辺勝次郎兄弟です。「若き日のために」というテーマで、どうぞ!……(スピーチの内容は記録されていない)
 渡辺兄弟ありがとうございました。地図や知識の上でアメリカを見ていた私たちは、彼の体験からどんなことを学びましたでしょうか?
 次の話者は前年度MIAの会長といえばお分かりになりますね。非常に確信に満ち溢れたパーソナリティーが感じられる神田治兄弟です。テーマは「理想の人」どうぞ!……(スピーチの内容は記録されていない)神田兄弟どうもありがとうございました。次の話者はやがてモルモンの母となられ、扶助協会では常に私たちの模範である鄭(現塚田)淑子姉妹です。テーマは「母」です。どうぞ!……。(スピーチの内容は記録されていない)
 鄭姉妹ありがとうございました。次の話者は「聖徒の道」を編集されている人です。今月の編集後記から抜粋しますと、「寒さに対する身体の準備と共に、聖徒の道によって心の準備をいつも心掛けておきましょう」と書いてありました。武蔵大学で経済を勉強されている松浦孝康兄弟どうぞ!テーマは「若き日のために」……。(スピーチの内容は記録されていない)松浦兄弟ありがとうございました。
 最後にゲストとしまして伝道部MIA副会長島田邦雄兄弟からお話しを頂きます。この間に審査員は採点の合計を出しますので、皆さんの採点表は尾崎兄弟と田上兄弟が集めます。
 島田兄弟をご存じない方はいないと思います。前年度の西支部支部長であり、彼の吹くクラリネットは不協和音で定評があります。失礼しました。「くんちゃん」というニックネームで皆に慕われている島田邦雄兄弟どうぞ!……。(スピーチの内容は記録されていない)島田兄弟ありがとうございました。
 では審査結果と賞状授与を菊地良彦委員長にお願いします。呼ばれた方はステージに上がってください。また話者全員に参加賞として賞品を差し上げます。……。(審査結果が記録されていない)
 菊地兄弟ありがとうございました。以上をもちまして、スピーチコンテストは終わりますが、どうぞ皆さんこの日を転機として、もっとスピーチを勉強しましょう。では閉会のバトンを塚田恵子姉妹に渡します。(記録はここで終了)

 私は教会員となって5年間、フェローシップ委員、支部MIA書記、スピーチクラス教師、地方部ガールズプログラム書記、地方部YWMIA第二副会長などのMIAで働き、又、日曜学校教師、支部扶助協会会長を経験し、1969年7月22日にハワイ神殿で岸野陽と神殿結婚をし、一児の母となった29歳の時1970年5月16日「マスターMメン・ゴールデングリーナー賞」を受賞した。これは当時Mメンとグリーナーにとって、また末日聖徒として最も輝かしい光栄ある誉れであり、このプログラムにチャレンジすることはMIA会員に与えられた最高の特典だった。連続3年間に予め定められた「資格と条件」を充足するときにのみ、この賞への申請ができたのである。
 時のデビド・O・マッケイ大管長は「本当に立派な母親であることは、あらゆる芸術の中で最高に麗しく、あらゆる職業(特に知能を有する職業)の中で最も偉大なものである」と教えられた。
 長男が19歳になったとき、この教えが如何なるものであるかを痛感することになろうとは、あの頃の自分には知る由もなかった。長男はオートバイと軽トラック事故により生涯背負う後遺症害を
被ったのである。

 マスターMメン・ゴールドグリーナー賞を受賞した時の感想文が残っていた。以下全文。

 「人間は一つの独創性を持たねばならない。もしそれがないならば探さねばならない」とゲーテは言い、イエス・キリストも人に与えられたタラント(マタイ25:14-30)についてお話されました。(タラントはギリシャの通貨ですが、貨幣ではなく高額の計算だけに用いる金額の単位だったそうです。1タラントは6000ドラクメで勤労者の一日の報酬が1ドラクメ=1デナリ、〈ローマの貨幣、マタイ20:2〉だったので6000日分に相当し、円に換算すると約345000円に該当します)
 私は子どものころから花鳥風月を愛し、(今思うに)ものの哀れを感じ、詩や俳句、短歌を詠むのが好きでした。
 一つご紹介しますと
「いつの日か心の景色変わるともアルプスの白き姿は聳えけり」
 この短歌は高校生の頃創りました。
 母親となった今は、もし子どもに文学や美術、音楽を通して霊を高め高潔さを学び、人間性を深く理解できるようになれば、それによって主の教えと証を更に強めることが出来ると確信していることを、受け継いでほしいと思います。
 私がこの受賞計画に参加して最も良かったことは将来子どもたちにこのような受賞計画をチャレンジするときに自分の経験を伝えることが出来ることです。
 私はダンスが大好きですが夫はあまり好きではありません。時々
今は8か月の長男が成長して「ママお手をどうぞ」と言ってくれる日を楽しみに夢見ているのですが…。
 子どもがやがて思春期から青年に成長する時の様々なことを考えると世の青年男女のグループや活動から遠のいて、若い肉体を鍛え、霊を成長させて、健全なリクレーションと社交性を身に着ける機会であるMIAが与えられていることを感謝せずにはいられません。
 また私はこのMIAにおいて永遠の伴侶との出会いがありました。ゴールドグリーンボール、開拓者記念祭、演劇祭、スピーチコンテスト、バスハイク、そしてクリスマスとかけがえのない経験と楽しかった思い出の中で若き日を過ごすことが出来ました。
 私は来年の4月に30歳になります。

        (東中央地方部東京西支部)
 
 
 

  • この当時には、お孫さんを何人も持たれるなんて、想像もされていなかったでしょうね。半世紀も前のことですから、今よりもゆったりしていた時代でしたが、それでも教会で忙しく責任を果たされていたことが容易に想像できます。今はもうない吉祥寺の建物は懐かしく思います。岸野兄弟は絵を描かれるんですね。精緻な絵で驚きました。私が吉祥寺に住んでいたのは42年以上昔のことですが、青春時代の一シーンでした。 -- 昼寝ネコ 2014-02-26 (水) 12:31:08
  • 昼寝ネコさま
    この絵は確かに白っぽく明るく清楚で教会の「聖さ」を表現していると思います。この投稿のために額から出して写真撮影をしたとき、額のガラスに絵の具がくっついてしまいました。なにしろ半世紀も前に描いたものです。
    ハワイ神殿訪問時、記念に頂いたヤシの実が今も手元にあります。なにしろ半世紀も前のヤシの実です。いつまで炭素化しないで保つのか子孫に委ねることの一つとなりました。 -- 岸野みさを 2014-02-26 (水) 15:54:00
  • 改宗の歴史の重みある筆力は然ることながら、幾重の年輪に刻まれた、ご夫妻の出会いから代々受け継がれていく信仰と証の偉大さを感じます。日本の教会の開拓者として働いてこられたのですね。私は改宗50年には後16年もあります。ぼけないうちにまとめねば。
    当時8ヶ月のご子息とのダンスは叶いましたか?岸野姉妹がダンス好きとは今まで知りませんでした。貴重な記録を感謝いたします。 -- としえ 2014-03-05 (水) 10:38:02
  • としえさま
    それがその願い(息子とダンス)は漠たる夢になりました。今では私の踊る姿が
    ドタドタしていて(見れたもんじゃない)息子が思春期のころは彼が恥ずかしがって、人生こんなもん、でしょうか? -- 岸野みさを 2014-03-05 (水) 12:06:59

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