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2014.03.06 自分史・家族史「看取りを終えて」 投稿者:加納 敏江

Where Love Is - Mormon Tabernacle Choir - Choir Songs - Choral Music - Flute - Harp - Organ - Solo

看取りを終えて
 
 
加納 敏江
 

 朝日新聞に3月4日から、東日本大震災3年目を迎えて「鎮魂を歩く」の再会編の記事が連載されています。「東日本大震災の直後、被災地を記者が訪れ、身近な人をなくした人々の思いを連載「鎮魂を歩く」でつづった。震災から3年。同じ記者が、かつてたどった地を再び歩く」と連載(1)の最後に書かれてありました。
 漁師だった彼は地震直後、船を避難させるのに沖に出て2日後に家に戻ると、家は跡形もなく、父と母、妻と2人の子も消えていた。という記事でした。11日を前に、地震や津波で亡くなられた多くの方々、ご遺族の方々に謹んで哀悼の意を表します。今だ仮設住宅暮らしを余儀なくされている方々も多く、原発事故で生まれ育った家に帰りたくても帰れない方々に、心を痛めるだけで何もできない自分が歯がゆく思います。

☆鎮魂と復興祈りつつ三月

 夫を看取り、父母を看取り、悲しみと寂しさの真っ只中にいる今でさえ、私の生活は平穏なのだと今更ながら気づかされました。こうした中、自分の親の「看取りを終えて」を書くに当たっては、少々申し訳なく思うのですが、子として記憶のあるうちに、父母のことを少し書き残しておきたいと思いました。
 一昨年(2012)3月10日母を看取り、今年(2014)2月20日に父を看取り、子としての私の役目は終わりました。2人とも90歳という齢を生き抜きました。90歳ともなれば、父の田舎では紅白のタオルを配り、めでたい事なのです。とはいえ、一人また一人と家族がいなくなるのは寂しい限りです。
 母は1991年5月5日、つくばワードでバプテスマを受けました。70歳まで働き、退職後はカルチャーセンターで俳句を学びました。旅行も好きで、行く先々で俳句を作って楽しんでいました。旅行に誘われても、私は仕事があり、全盲の夫を残しては行けません。それに高所恐怖症で飛行機に乗れませんでしたから、母はいつも寂しかったと思います。これだけは親孝行出来なかったことです。母は13年間俳句を続けました。私が俳句をやるきっかけは母でした。「どの句がいいかな?」「これがいいと思うよ」と母の句を選んでいるうちに私もいつしか俳句をやってみようかしら、と思うようになっていました。

☆風が組み風がまた解く花筏(いと女)

私の一番好きな母の句です。
 83歳の時脳出血で倒れ、体の麻痺はなかったものの、認識や記憶の部分がだめになり、うまく自分の気持ちを言葉で伝えられなくなり、読み書きもできなくなって、自分の楽しみを見出す老後の人生にピリオドが打たれたのです。そこから7年間は介護の日々でした。

☆蓮田風母の寝顔を見て帰る

実家のあたりは蓮田がたくさん広がっています。夏は大きな蓮の葉を風が揺らしていきます。蓮の花も見ごたえがあります。

☆地の底の磁力に開き蓮の花(いと女)

 父は帽子を作る職人で帽子屋をやっていました。手に職があったので、自分の店を閉めてからも縫製会社で85歳まで働きました。父にしか出来ない技術のいる仕事だったのです。片道1時間かかる職場にせっせと通い、元気に働いていました。仕事を辞めてぼけるのではないかと心配しましたが、子猫をもらってきて飼いはじめ、料理を作ったことなどない人なのに、料理の本を買って料理を作るなど精力的で、これではぼけている暇はないとひと安心したのでした。庭の手入れや母の面倒もよくみてくれて頑張っていました。父は教会員ではありませんでしたが、特に反対することもありませんでした。母が亡くなった時「私達はクモラの丘にお墓があるのでお母さんはそこに入れるつもりだけど、お父さんはどうする?」と聞くと「死んでからはわからないのだから、好きなようにしてくれ」と言いました。父は100歳まで生きるだろうと私達は話していましたが、昨年(2013)の夏、熱中症で2週間入院してから、急に弱ってしまいました。10月に救急搬送され、末期の胃がんとわかりました。その後4ヶ月で逝ってしまいました。はじめは毎日父が無事に守られるようにと祈っていましたが、いつしか安らかに旅立てるようにという祈りに変わりました。
 そう祈ってからしばらくして、本当に安らかに逝ったのでした。親ですから、少しでも長く生きてほしいと思うのですが、もうこのへんでよく頑張ったと思える時があるのでした。祈りが聞かれたように思いました。

 母は知識不足で胃ろうをしてしまい、失敗しましたので、父は食べられなくなっても点滴だけにしました。母は自宅で、父は個人の病院での看取りとなりました。父と母二人揃って90歳、幾多の困難を乗り越え、家族に見守られて、静かにこの世での人生に幕が下ろされました。実家からもらって挿し木したピンクの紫陽花は、我が家の庭に根付いてくれました。3年後に同じピンク色に咲きました。紫陽花の中に母が隠れていそうだといつも思えるのです。そして「お前も苦労するねえ」と言ってくれているような気がします。
 長女が私の時はどうするのかと聞いてきました。もちろん延命なし、胃ろうなし「酸素マスクは?」「いらない」ここ3年連続の喪中に、自分の死に方にも目を向けることになりました。少々重い話ではありますが、私も自分の死について考える年齢になったという事でしょうか。65歳高齢者、介護保険証が届きました。昨日は久しぶりに夜空を眺めました。空が澄みきって星がとてもきれいでした。

四季雑詠
 父母からは何受け継ぎし夕涼み
 囀りや父黙々と庭仕事
 寄り合うていて紫陽花の息遣い
 白牡丹母いるごとく座すごとく
 ふるさとに親いる幸や青すすき
 
 
 

  • 作品中、画数の多い漢字がつぶれてしまうので、太字を修正しました。同居の義母は91歳になり、北海道で独居の母は89歳になりました。両方とも、年金を私たちに貢ぐのを張り合いに生きているようなものです。お母さまは言葉で表現できないのは、さぞかしもどかしかったでしょうね。私は、不意の来客を視野に入れつつ、だましだまし生きています。最近は、もう少し生きていられるかなと、欲も出てきています。 -- 昼寝ネコ 2014-03-07 (金) 01:30:31
  • 加納敏江さま
    「親の恩は子に返せ」と言われていますが親の恩を親に返すことができたのは立派です。
    生きざまは選べても死にざまは選べない、ことにざまあみろ、などと共通の敵が言っているかも知れません。善い行いをすることによってどうにかなるものでしょうか?
    お母様から沢山のお土産を頂いたことがあります。お醤油などの生活必需品で量の多さにびっくりしました。加納家がビッグファミリーなので同じように消費されると思われたのでしょうか?ありがとうございました。
    いと女さまの句も素晴らしいですね。蓮の花は地の底の磁力で開くのですか?
    美しいものが秘めている凄みに思わずヘニャっと青菜に塩のようになりました。 -- 岸野みさを 2014-03-07 (金) 06:06:54
  • 昼寝ネコさま
    不慣れな投稿に色々ご迷惑をおかけします。母親というものは、子供のために生きる部分があるんですね。私も母にはお小遣いを貰いっぱなしでした。勝手にそれが親孝行だなんて思ってました。お母様と電話で話が出来るのはうらやましいです。我がことのように、お二人のお母様には長生きしてほしいです。また、名誉編集長さまにも長生きしてもらわねば。ご自愛ください。 -- としえ 2014-03-08 (土) 11:29:17
  • 岸野みさをさま
    コメントありがとうございました。両親と弟をみるのに、引っ越したのですが、介護で自分の家族を犠牲にしてしまったかな?と思うところありです。親をとるか、夫や子供をとるか難しいところだと今思います。ドラえもんの分身の道具が欲しかった!!
    母が岸野家にお土産をあげたのは知りませんでした。(忘れたのか?)今は岸野家の方がビックファミリーですね。
    蓮の花は死者へ供えるイメージがこう詠ませたのか、不思議な花に思えたのか。こんな表現は私には出来ません。私は今だに蓮の花は1句も詠めません。負けてます。 -- としえ 2014-03-08 (土) 12:06:32
  • としえさま
    負けてませんよ。あなたはこれから開花する人です。お母さまが俳句を始められた年齢の9年も前に俳句を詠みはじめているではありませんか。夫のために蓮の花で一句創られるのを楽しみにしています。あっ、蓮の花ではなくてお二人が愛してやまない薔薇でした。 -- 岸野みさを 2014-03-08 (土) 17:25:46

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