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2014.03.14 自分史・家族史「母の教え」 投稿者:岸野 みさを

 誰もがそうかもしれませんが、母について語る時は言い尽くせない深い想いと感謝が溢れます。子どもの頃どんな母の姿を見て育ったか、お話したいと思います。
 物心つくころから、思い出すのは母の働く姿です。畑を鍬で耕している姿とか、草刈りをしている姿とか、重い荷物を背負っている姿です。
私の育った家は山の中腹にありました。よく山の麓にある水車小屋へ妹と母と三人で玄米を白米に擦るために行きました。
 水車をご存知ですか?明治時代から昭和30年ころまで水車が動力として使われていました。直径7mくらいの大きな水車が落ちてくる水で廻るのです。その力で連結されている杵が臼の中に入っている玄米を衝くとお米は白くなっていきます。水車を使う時はそれが設置されている崖の上にある水路を開いて水を流し、使わないときは水路を閉じます。そこに登ると上から水が水車の上に流れ落ちているのが見えますが、ここから先をのぞいてみたりしてはいけません、と母にきつく言われていましたのでそれは危険なことだと察知して守りました。
 お米が白くなると母はそれを背負ってまた木々の間の山道を戻ります。途中決まって休む場所があって、母は背中の荷物を下ろして三人で木の葉を拾ったり、蟻塚を捜したりして遊んだものでした。

 母は、朝の暗いうちから夜は暗くなるまで良く働きました。色々な場面が映像のようにはっきりと思い出すことができます。農家は田植えとか稲刈りの農繁期はとても大変です。隣村の平野にある田圃まで朝4時ころ起こされて手を引かれて、半分眠りながら坂道を登りました。次の集落に着くころやっと太陽が東の山に昇って、私もやっと目が覚めるのです。それからまた、隣村の平野まで一時間以上歩くのです。
 朝はまだいい方です。夕方、暗くなり始めるころ家に帰る時は疲れて眠くなって、初めは歩いていても途中でよく「歩くのヤダー」と言って泣きました。母の背中には妹がおんぶされていてスヤスヤ眠っていました。母の片手には荷物があるのです。そんな時母は決まってこう言いました。
「一歩だけ歩いてごらん。一歩だけ家に近くなるのだよ」一歩だけ、一歩だけと言われて、とうとう4kもの暗くなりかかった道を歩きました。魔法のような不思議な言葉でした。今でも歩くのヤダーと泣きたくなる時自分に言い聞かせているのです。一歩だけ、一歩だけがんばってみてと、母の教訓はこの年齢になった今も生きているのです。

母、田中(保科)志づ枝の自分史の一部を以下にご紹介します。

 やがて尋常小学校に入るようになりました。私は大正6年(1917年)3月31日生まれでしたので、今の年齢でいえば6歳で入学したことになります。
 文字はひらがな(それ以前はカタカナ)で教科書は年上の人が使ったもので、ところどころ破れてゐるものを、丁寧に貼って使ったものでした。其の頃は今とは違ってお金もなく、品物もそう出廻ってゐませんでしたので、学校に掛けていくかばんは、布地で縫ってもらったものでした。其の中に教科書を入れるのです。男子生徒は風呂敷に入れていました。一年生の時は手帳を使はず、石板に石筆でした。何回でも其の石板に書いたり消したりして練習するのです。今でいう黒板と同じです。また其の頃は着物に袴で洋服はありませんでした。

 私が通った学校は分校でした。北小川村には分校が四校もあり、まさに山間僻地だったのです。先生は二人おられて、一年と二年生を受け持つ先生と、三年四年五年生を受け持つ先生でした。
 私のクラスは、飯島トリ先生で、一クラスを先生が教へてゐる間、他のクラスの生徒は復習をやるのです。休み時間にはお手玉やあやとり、まりつき、おはじきで遊んだものでした。校庭にはぶらんこや、廻りぶらんこなどがありました。家に帰ると、夕方から友達と蛍取りに行きました。源氏蛍をよく取ったものです。さわがにも捕まえていたずらをしました。
 夏も過ぎ秋になると、栗拾いや山の実取りが楽しみでした。山ぶどうとかあけび、よつずみや山梨など、色々な山の幸がありました。

 秋が終わり、冬がだんだん近くなり、雪の降る季節になりました。まだ其の頃は「ゴム」の靴は出始めでした。生徒のうち約半分位しかゴム靴を履いてゐませんでした。藁靴の低学年は水が沁みてきて冷たいので泣きだしてしまい、それを見かねて大きい生徒がおんぶして通学したものです。其の頃はまだストーブもなくて、火鉢で炭をおこして学校の中を暖かくするのです。学校の入り口には大きな火鉢があり、履いて行った藁靴を、上から下げて乾かし、其れをまた帰りに履くのです。
 教室の中も、炭をおこして暖かくして、勉強するのです。お昼(弁当)は下に火鉢をおゐてある棚があって、其の中に入れて温めたものでした。

一年、二年の時に教科書はあまりなく、修身に算術、読本でした。三年四年五年になれば教科書が多くなり、書き方、図画、理科に地理、歴史、体操、音楽(頌歌)と科目が増へるのです。先生は厳しく、出来なかったり、わき見やいたずらをすれば、すぐむちで叩くのです。怠けてゐれば叩かれるので、授業中は話も出来ないし、よそ見も出来ませんでした。

 冬も去り春がきて、野に花々の咲く春は本当に愉快で楽しく、気分もうきうきするのでした。春になるとたんぽぽや桜、色々な花が咲き乱れるので、押し花を作り、きれいに出来たのを友達と見比べっこをしたものです。夏休みには小川に行き、かじかと言ふ泥鰌に似たような魚を釣ったり、流れの小さな所で子ガニを取って遊んだものでした。

 分校は五年生までですから、五年が終はれば本校に行きます。本校は北小川村の中心にありました。其こには役場や組合(農協)もありました。分校の生徒が皆集まり、男女ニクラスに分かれるのです。女子と男子に分かれて先生は二人。生徒の数は一組五十人前後でした。
 分校も入れて全校生徒は八百人位でした。勉強は一日に五時間から六時間で、其の頃は今の国語のことを読本、数学のことを算術と言ひました。
分校から来て名前も性格もわからず、とまどいましたが、其のうちに馴れ合いました。

 分校から本校までの距離は、遠い人が二里(8㎞)、その他でも一里半はありました。雨が降っても雪が降っても、毎日何の文句も言はず、友達と時間を決めて待ち合わせをして、通学したものです。遠い道のりですので、一時間半位はかかり、皆遅刻しないように近道をよく歩いたものでした。雨降りの日は道の土がねばって、靴から足が抜けるほどでした。舗装道路でもなく、バラスも敷いてない山道なのです。

 夏も終わり秋になると日が短くなるので、学校からの帰りも遅くなるのです。昔は懐中電灯もなく、かばんの中に提灯を入れて、帰りはそれをつけて帰ったのです。まるで歌のように、小田原提灯を持って友達と帰ったものでした。今思へば何の不満も言はないで、皆そうした生活に満足してゐました。

(母の自分史の抜粋終わり)
 

 戦後のある日若い女性が家にきて「食べ物を下さい」と言いました。白いブラウスが6歳くらいの私には印象的でした。物乞いではないと祖母が判断したのでしょうか「ない」と言いました。女性は次の集落へ行く坂道をトボトボと登って行きました。祖母と母が何か話しをして、母は急いでおにぎりを作り慌ててその女性を追いかけました。しばらくしてがっかりして戻ってきました。「探したけどいなかった」と母が言いました。母のそんなにがっかりした様子は初めて見る思いがしました。私は子ども心に、人が助けを必要としているときはその時しかないのだ、と思い本当にお腹が空いていたのなら可哀想だと思いました。

 父は若い頃マラソン選手で痛めた足が原因で2度の徴兵検査に合格しませんでした。戦争に行かなかったのです。父は長野県美麻村の先祖から受け継いだ山坂にある田畑を売り払って隣村の白馬村の開拓地に入植しました。開拓地では最初は鎌や鍬で人の手で開墾しましたが昭和35年頃トラクターがきて原野を開墾するようになりました、共同作業でなければ出来ないことが沢山ありました。私は中学一年の時から、白馬村の中学に転校しました。気がついた時父はいつも困っている家の仕事をしていました。自分の家のことは母が一人でやるはめになってしまいました。辛抱強い母も毎日の肉体労働で疲れきっていました。自分の家を放ったらかして、そんなの偽善だと私は思いましたが、母は文句も言わずに牛馬のように働いていました。

再度、当時のことを母の自分史の一部からご紹介します。

 私達の住んでいた美麻村青具石原(みあさむら あおく いしはら)というところは、山の中の過疎地で、お米を作るには、隣村の神城村(現在は白馬村に統合)の平地にある田圃まで行かなければなりません。そこで夫は、同じ苦労しても、お米一俵は一俵だと言ひまして、白馬村北城落倉(はくばむら ほくじょう おちくら)開拓に入植したのでした。時は昭和二十三年頃だと思います。最初は夫が一人先に入植しまして、私達は石原に残り、以前から耕作していた畑や田圃を作ってゐました。

 入植した一年間は外かくで終わりました。測量一世帯三丁五反歩(一反歩は300坪一丁歩は3000坪)の面積、それに道路に水路に農道、これらの地割りを、県と地方地務所と役場の農林課の指導によって行ひました。この開拓地は平地でしたが山林でした。大木は地主の人が切りましたが、小さい木の下のやぶは、自分で土地を切り払いするのです。面積が広いので、なかなか早くは終わりませんでした。やぶを焚き、耕さないで棚だけ立てて、馬鈴薯や大豆、あわなどを作付けしましたが、豆は根粒菌がないので、実りませんでした。

 開拓をするに当たり、食物も何もないのです。政府から資金を借り入れて、生活しながら開拓を続けました。土地は酸性土壌で、野菜は全然出来ませんでした。発芽しては消えるのです。同じことを何年も繰り返しながら畑を開墾しました。開拓をすると言っても、何の機械もなく、鍬一丁でするのです。開墾ばかりしてゐても、食べる物が何もないので、近所の田圃を借りて米を作る人もいました。その収穫で生活をするのです。小さなかやぶきの小屋を作り、ランプをつけて焚火で……今考えてみれば、みじめな生活をしたものです。私の家は神城の田圃を続けて作っていたので、そこで収穫した米を開拓に持って来ました。

(中略)

 開拓は手でやぶを切り払って、その後を鍬でうなうのですが一日働いても、ほんの少ししか耕せず、疲れるだけでした。

 政府も、いくら兵隊さんや引き上げ者が帰って来たからと言って、無茶なことを人民にやらせたものです。あまりの苦労で、離農する人も幾人もありました。作物は何も採れないので、食べるものもなくて、政府から借りたお金で食べたりしました。お金も先に借りたものを返すので、仕方なく借り替えをして、支払っていました。
 とても苦労を続けて働いたものでした。子供が開拓地に来た頃は、石原から土蔵を持って来て、そこで暮らしました。

 また、買い物は森上か四ツ谷まで行くのです。早く買い物をして帰って来ても、すっかり午前中はかかるのです。また戦争直後で、開拓者で、食生活は決まったような物しか、食べられませんでした。何年か過ぎてようやく色々な品物も出回ってきて、少しは暮らし易くなりましたがそれでも開拓はなかなか進歩しませんでした。

(中略)

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 食べる物を作らなくてはと、田圃を掘りました。最初の一枚はスコップで堀り、リヤカーで土を外に出しました。子供も日曜日には手伝ってくれました。それから水稲をやっている他の開拓地に行き、レールを借りてきて、トロツコで堀りました。雨が降っても、風が吹いても、毎日掘り続けました。終戦後で、履く長靴やカッパなど何もなくて、雨が降ると、体に沁み通るような蓑を着て笠を被ってやりました。

 また毎日のように、開墾鍬や鎌などで、やぶを刈り払い、開墾しました。最初の年、田圃一枚一反歩に田植えをして、秋になると、なんと見事に黄色、黄金色の穂が垂れて、ようやく開拓の田圃で収穫を得ることができました。とても嬉しく思ゐました。

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 昭和三十五年頃だと思ひます。県の畜産科にトラクターとブルトーザーがあって、運転手付きで来て下さいました。木の切り株や、地面のやぶや草をきれいに剝いで、其の後からトラクターで耕して行くのです。一世帯三丁五反歩で十世帯分ですから、幾丁歩といふ面積なのに、春に来て、終わる頃は、お盆過ぎだったと思ひます。一台の車に運転手が二人で、午前と午後交代でやりました。朝は必ず車の点検をやってから、仕事を始めるのです。それでやっと落倉開拓も前進しました。

 

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 それから共同で、ヤンマーの耕耘機と小さい耕耘機と二台買ひ、畑を耕したのです。共同で広い面積を耕すため、間もなく壊れてしまいました。その後、県から来たトラクターを、共同で買ふ話しが来ました。集会をしたところ、全員では買はないと言ふ人もあり、たった三件で購入しました。他の人達は、自分で耕耘機を買ふということで、仲間にはなりませんでした。いよいよトラクターも来ました。一班二班に分かれて、運転することになり、若い人二人で耕すことになりました。

 落倉開拓は、其のトラクターのお陰で、成功したと思ひます。トラクターの働きは、素晴らしかった。仕事の都合で、若い人は残業をして九時頃まで一丁歩の畑を耕したものです。それから、作付けは楽になり、畑にはそば、大豆、小豆、とうもろこし、野菜等を作って、収穫しました。そばはせいが良くて、たくさん採れました。大豆も小豆もたくさん採れました。

 それから借り入れ資金で、一世帯六反歩づつ田圃を掘ってもらいました。水がないので、部落の一番下にダムを造り、電気で上に揚げるのです。田圃の整地は、県からブルトーザーが来て、整地をしてくれました。一枚一反歩づつでした。田圃耕土は、ところどころ盛ってもらい、後は自分の田圃の耕土を造り散らかして、出来上がりです。子供も小さいながら、協力してくれました。三女のめぐみは大人に負けない気で頑張ったものです。
 六反歩ちらかして水をかけて耕してみると、高低があって、簡単に稲を植へられないので、それで水の中を高い方から低い方に土を運ぶのです。どの位の労力かわかりません。疲れても、それをしないと田圃にならないのです。今日も明日もと毎日続けて一枚の田圃を完成させるのです。一世帯六反歩、六枚完成させて出来上がりです。

 最初の頃は水持ちが悪くて、村で話し合って時間制にして、水をかけたものです。田圃と田圃の間の農道も造り、耕耘機が通れるようにしました。それから飲料水と何でもゼロから始まったからです。
 昔のご先祖様は立派で感謝致します。昔は何の道具があったわけでもないのに、田圃や畑、また立派な神社仏閣などの遺産を造り後世に残してくれました。

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また田圃を造る前畑だった所にそば、大豆、小豆などを作りました。一世帯が農地三丁五反歩です。子供が大勢いるうちでは、耕作は少しでした。お互いに開拓だけで生活するのは大変で、子供はお小遣いを稼ぐために、既存の農家の田植えを手伝いに行って、父さんによく叱られたものでした。他人のうちのお手伝いに行くより、自分のうちに頼むようにならなければと言はれました。

                             父・田中頼芳

 そのうちにその父さんの願いがかなって、手植えの田植えには切久保(集落名)や松沢(集落名)から人夫を頼みました。一日に五、六人程頼みました。その後は一日で田植えが終わるように、農協の婦人部にお願いして、十人余り来てもらいました。

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 毎年毎年、百姓は同じようなことを繰り返すのです。其の年の天候によって、作物が豊作であったり、凶作であったりするので、百姓は秋の収穫を見なければわからないのです。
 最初は水苗代、次は雪中苗代、次は丘苗作り、最後は田植え機を買ひ、保温苗代と、数知れない程苦労して、苗作りをしました。ここは高冷地なので、遅霜や、また時にはすごい風や雪を持って来ます。其の度ごとに苦労して、苗の手入れをするのです。田植え機が出始めた其の年に買ひ初めて田植え機で田植えをしました。一日に二反歩位は簡単に植えることができて驚きました。

                                   母と弟の拓実
(母の自分史からの抜粋終わり)

 働きずくめの母の晩年は腰と膝が曲がり、リウマチに苦しめられました。以下「わしのように翼をはって」(P、80)から転載しました。

 母は夫に37年間仕え、姑に39年間仕えたのです。まだ元気だったころ私は「母ちゃんは幸せだったときがあったの?」と聞くと「お前たち、子どもが幸せであれば、それが私の一番の幸せだ」と答えました。

 死ぬ日に自分の子どもは「みさをと智(さとる)とめぐみと拓実」(一男三女)だと口に出して、確認しているかのようでした。母は次女智を産んだ後双子の男の子を産みましたが逆子で死産でした。産婆が間に合わず父が胎児を引っ張り出した、と聞きました。今の時代であれば到底考えられない事態です。また三女のめぐみは未熟児で生まれました。妊娠したからといって、家事や農作業から解放されるわけではないので結局無理が祟ったのです。

 1995年7月29日母田中(保科)志づ枝は78歳で死亡しました。1996年12月17日に私の娘のありさが母の身代わりのバプテスマを受けて、同日私が洗いの儀式を受けました。1997年1月17日にエンダウメントを受けました。神殿のエレベーターの中で神殿長婦人の菊地登志子姉妹に会い「母のエンダウメントです」というと彼女はニコッとして「まあ、よかったわね」と言いました。菊地神殿長ご夫妻も同じセッションに入りました。エンダウメントの最後にベールの前に進みでたときにベールの向こう側にいたのが夫の岸野陽(ひろし)であると分かった時、びっくりすると共に、主のお導きに深く心打たれました。親孝行と言えるほどのことが出来なかった娘ですが、その時母が「岸野さんありがとう。みさをありがとう」と言っているように感じました。夫に当たる確率はベールワーカーの数とエンダウメント参加者の数と順番によって全く不確かなものであるのに…。
 また、夫に永遠の世界における母の名前を知ってもらうことができて嬉しく思いました。

(転載終わり)

山際で陽に照らされて雪墓標   2014年1月作
 
 
 

  • ご両親は、真の開拓者でいらっしゃったんですね。苦難の開墾で培われた不屈の魂の源泉を見た思いです。弟さんのお名前を特別な思いで見つめました。 -- 昼寝ネコ 2014-03-15 (土) 00:02:42
  • 昼寝ネコさま
    はい、弟は開拓地で生まれたので、開拓の拓をとって、実るようにという願いを込めて
    拓実と父母が名づけました。 -- 岸野みさを 2014-03-15 (土) 06:18:16
  • 岸野姉妹

    お母様は農業や家事・子育てのお忙しい中で、よく自分史を残されましたね。
    すばらしい模範が岸野姉妹を経て子孫に伝わっていくことでしょう。 -- 吉田憲博 2014-03-15 (土) 11:01:46
  • 吉田憲博兄弟
    母は1985年68歳の時にこれを和紙にボールペンで書き残してくれました。驚異的な記憶力に驚きました。小学校一年生の時の先生の名前を私は思い出せません。
    -- 岸野みさを 2014-03-15 (土) 11:24:12
  • 岸野みさをさま
    膨大な文章量に圧倒されながら読みました。お母様はよくぞ自分史を残されたと、感謝の気持ちが湧きました。他人事ではなく貴重な記録です。78歳とはまだお若くて亡くなられたのですね。お父様とお母様の写真は、土に生きる者の強さとやさしさを感じます。お母様の写真はありさ姉妹にも似ているような・・・弟様は可愛かったですね。残念なことでした。いつの時代も母は強し、働いて働いて、そのうしろ姿を追いかけて生きてきたような気がします。俳句の雪墓標は、雪国でなければ詠めないもので心にしみます。 -- としえ 2014-03-17 (月) 11:04:45
  • としえさま
    「働けど働けど
    なお我が暮らし楽にならざり
    じっと手をみる」
    と石川啄木は詠みましたが、父母はそうではなかったと思いたい娘が雪景色の墓標の前にたたずんでいると、お陽さまの暖かい光が降り注いで、「大丈夫」と寂寥の思いを払拭してくれました。そうでした、春夏秋冬を愛でた父母は自然の中に偉大な存在を感じていたのだと思います。「土に生きる者の強さとやさしさ」を感じてくださりありがとう。 -- 岸野みさを 2014-03-17 (月) 12:27:02
  • 岸野みさを様、素晴らしいご両親の歴史、特にお母様の自分史に感動致しました。
    素晴らしい記録が有り、ご家族に開拓者の精神が受け継がれてる事と思います。
    お孫さん達が、この記録を読み、誇りに思い、特に、一歩だけ、の言葉は、お仕事にも、信仰生活にも、岸野みさを様の原点を感じました。 -- 姥桜 2014-03-21 (金) 21:30:43
  • 姥桜さま
    コメントありがとうございました。
    確かに親を(母)越えられない自分です。母が一歩だったので私は「二歩だけ歩いてごらん」と言ってみればいいのでしょうか? -- 岸野みさを 2014-03-21 (金) 23:42:53

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