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14062201昼寝ネコ

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2014.06.22 創作短編・穀粒創立1周年記念「ベンチウォーマー(日比谷公園編)」 投稿者:昼寝ネコ

Learn French with - Charles Aznavour Hier encore
 
「ベンチウォーマー」(日比谷公園編)
 
昼寝ネコ
 
 
 救急車を呼んでもらった方がいいのではないかという不安感と、どこかに座って様子を見ようという気持ちの、どちらが勝ったのだろうか。狭くなった男の視野が捉えた公園のベンチが、とりあえずの待避所となった。
 夕方とはいえ、木々の間を荒々しく縫ってくる初夏の陽射しは、辺りの空気を澱ませ息苦しさを倍加させていた。ネクタイを緩めようと、重くなった手を上げたが、身体中から冷たい汗が噴き出し、その上、視界がどんよりと暗くて、思うように指が動かない。頭も妙に重く判断力が低下している。脳か心臓のいずれが不調なのだろうか、あるいは両方なのだろうか。
 全身をベンチの背にあずけ、眼を閉じて深く息を吸った。もっと早く気づけば良かった。呼吸が浅かったのかもしれない。何が原因なのだろう。不安な気持ちはほんの少し薄らいだが、生命保険の金額や、遺言書の肝心の部分が書きかけであること、もしものとき、やりかけの仕事はどうなるのだろう、去年の五十五歳の誕生日を期にちゃんと準備を進めておけば良かった・・・。考えても仕方のないことが同時に頭の中を駆け巡った。・・・周りから生命力に満ちた樹木の匂いがする。どうやら峠を越えたようだ。
「あのう、だいじょうぶですか?」
 横から声が聞こえた。どうやら先客のいるベンチにお邪魔したらしい。声のする方に顔を傾けた。真面目そうな青年だった。
「いや、ご心配ありがとうございます。」
「救急車をお呼びしなくて大丈夫ですか?」
「ああ、どうも・・・なんとか落ち着いたようですので。・・・もう少しこうして休んでいれば・・・だいぶ楽になってきましたので。」
 ずいぶん親切そうな人間だが、一応は用心しよう。男は書類鞄を自分の方に引き寄せた。

 帝国ホテルのコーヒーショップで契約の打ち合わせを終えたのは、午後の遅い時間だった。日比谷公園の松本楼が思い浮かび、人影の少ない広々とした公園を横切ってレストランを目指した。かすかにコーヒー豆の香りが漂う一階で、遅い昼食をとりながら、懐かしい思い出に浸っていた。
 「ハヤシライス」が好きな子どもたちにせがまれ、でも顔中に広がる嬉しそうな表情を見るのが楽しみで・・・季節ごとに表情を変える日比谷公園を背景に、年ごとに成長する姿を確かめながら、ここはいつしか思い出の場所になっていた。
 今はもう、娘と二人きりの生活になってしまったが、その娘もいずれは嫁いで行く。多くは望まない。平凡で暖かい家庭を築いてほしい。
「あのう、落ち着かれましたでしょうか?」 青年の声だった。
 せっかく子どもたちとの思い出に浸っていたのに、という不快感と、先ほどまでの症状がかなり好転しているという安堵感の両方があった。
「あ、いや、ありがとうございます。・・・ずっといてくださったんですね。」
「少し苦しそうなご様子でしたので、失礼かとは思ったのですが、様子を観させていただいていました。顔色がずっとよくなられましたよ。」
「そうですか。・・・公園を出ようと思ったら、急に気分が悪くなりましてね。どなたかに救急車をお願いしようかと思ったのですが、このベンチが目に入って、とりあえず避難してきた次第です。」
「ああ、そうでしたか。」
「あなたは、ずっとここにいらっしゃったんですか?」
 男は座り直し、青年に身体を向けた。
「ずっと狭い部屋に閉じこもりっぱなしで効率が悪くなったものですから、開放感のある公園に仕事場を移しました。」
「ほう、そうでしたか。おかげで私が命拾いさせていただきました。」
「いえいえ、とんでもないです。別に何もしておりません。」   
 深呼吸した男は、青年の膝に載せられたままの原稿用紙と筆記具を目に留めた。
「何か、文章を書くのがお仕事なんですか?」
「仕事というにはほど遠いんですが・・・なかなかお金にならなくて。いくつかの劇団に脚本を書いてはいるんですが、みんな貧乏劇団なものですから、どこも予算がないんです。」
「そうですか。でも、夢のあるお仕事で羨ましいですよ。最近は、お金だけを追い求める若手の事業家が多いようですが、感心しない手法が世の中を荒んだものにしていますからねえ。」
「そうですね。でも、現実生活にはある程度のお金も必要ですから。」
 頷くと、少し饒舌になった男は先を続けた。
「失礼ですが、ご家庭をお持ちなんですか?」
「いえいえ、まだ独りなんです。」青年は俯き加減に答えた。
「ああ、そうですか。でもね、収入や資産など、最近は条件を見て結婚を考える女性が多いですが、スタートは苦労しても、軌道に乗ればお金はやがてついてくるものですよ。でも、お金を第一順位で考えて結婚した後、一時的にでも失業してご覧なさい。私はこんな生活を望んでいませんでした、と言って、それでお終いですよ。ですから、あなたの可能性を信じ、人間性を評価して、苦労をともにしてくれる女性を探すのが一番ですよ。そう思われませんか?」
「はい、そうですね。世の中の父親すべてが、あなたのようなお考えだといいんですが。」
 男は、ふと自分の娘との最近の会話を思い出した。
「私には娘がいましてね。どうやらお付き合いしてる男性がいるらしいんですよ。IT関係の企業で働いているそうで、収入は安定しているらしいんですな。」
「はあ、それは羨ましい。せめて私にもそのような安定した収入があれば・・・。」
「しかしね、世の中の最先端を走っているということは、逆にいうと歴史がない業界なんですよ。それこそ先のことは誰にも分かりません。そんな不安定なリスクを、娘には負わせたくないんですよ。父親って、こと娘のことになると保守的になるものですねえ。」
 青年は、父親ほどの年齢の人物が自分の味方になってくれているように思え、親近感をもち始めていた。
「娘に付き合っている男性がいて、結婚を考えていると知ったとき、父親はどんな気持ちなんでしょうか。」
「そりゃあ、待ってましたと歓迎する父親はいないでしょうな。たとえ、どんな理想的な条件の男性であっても、大反対するでしょう。」
「どんな理由で反対するんでしょうか。」
「理由なんてある訳がないですよ。娘に結婚相手が現れたと聞くだけで、不幸の使者がやってきたと断定するわけですよ。早い話が、眼が二つあるからだめ、歩くときに足を交互に出すからだめ・・・そんなもんですよ。」
「はあ。」
「でもね、そんな冷戦状態は長続きするものじゃあないです。結局、娘はいつしか嫁いでいくものですよ。まあ、独り取り残される寂しさもあって猛反対するんでしょうなあ。」
「はあ、そうですか。」
「なんだ、元気を出してくださいよ。どうしました?まさかプロポーズして反対されているんじゃあ・・・」
「はあ、まあそんなところなんです。」
「おや、それは困ったお立場ですね。で、うまく進んでいらっしゃるんですか?」
「ちょっとお手上げ状態なんですよ。」
「うむ。相手の父親が反対されてるんですか?」
「はい。お願いしてるんですが、まだ会ってもいただけないんです。」
 やれやれ、気分はすっかり良くなったが、これじゃあ人生相談だな、と男は思った。しかし感じのいい青年だ。気遣ってくれたお礼に、元気づけてやろう。
「父親が一番の難敵なんですよ。ですから、まずお母さんを味方におつけなさい。それがありきたりですが、一番の秘策ですよ。」
「なるほど。でも、彼女は母親を亡くしているんです。」

 妻と最後に日比谷公園を訪れたのはいつだっただろう。一瞬、男は自問した。季節ごとに訪れた公園には、捨て猫が目立った。餌の少ないであろう寒い冬に、妻は行き場を失った小さな猫を抱え上げ、家に連れ帰りたいと無言で同意を求めた。あのとき、連れ帰っていれば私たちの運命は変わっていたのだろうか。

「ですから、どうしても父親の同意が必要なんです。」青年は弱々しく呟いた。
「そうですか。いや、そのお父さんの気持ちは痛いほど良く理解できます。でも、あなたのお話しを聴いていると、そのお嬢さんをとても大切に考えていらっしゃることが伝わってきます。」
 二人の間に重い沈黙が割り込んできた。突然、背後で数羽の鳩の羽音が響いた。ここまでは噴水の音が伝わってこないのだろうか。男は無関係なことに考えを向けていた。小さかった頃の娘の、無邪気な笑い声が聞こえたような気がした。娘にとって一番幸せなことを実現してやらなくては・・・。所詮、自分に母親の代わりはできない。当たり前のことだが、無力感を否定することはできなかった。
 そのとき、携帯電話の着信音が鳴った。My Foolish Heart。自分のものではなかった。

Bill Evans trio - My Foolish Heart

「ちょっと失礼します。」
 着信番号を確認すると、短く断りを入れ、青年はベンチから数歩離れた。この距離だと会話はすべて聞こえる。聞こえてもいい。お互いに知らない同士なのだから。後ろ姿からは青年の表情をうかがい知ることはできない。だが、おそらく恋人からの電話のようだ。口調からそう感じる。
「しのぶさんは、それでいいの?」
 しのぶさんはそれでいいの・・・。しのぶさん。確かに青年はそう言った。これは単なる偶然なのだろうか。そうだと思うが、なぜか心から肯定できなかった。逆に、運命のいたずらが徐々に、その完璧な姿を現そうとしているような予感がしてならなかった。
「じゃあ、六時に待ってます。気をつけて。」
 男は聴いていないふりをした。
「どうも、大変失礼しました。」
 青年は戻ってきた。男の腹の底には重い固まりが生まれていた。最初は小さかったのだが、徐々に膨らんでくるのを感じていた。
「いやあ、彼女からだったんですよ。ちょっとあなたのことをお話ししたら、お会いしてみたいと言っていました。参謀役をお願いできないかと。」
「いえいえ、とんでもない。私なんかこの年でもまだまだ世間知らずですから。」
 訊いてみたい衝動はあった。しのぶさん。名字はなんとおっしゃるんですか?しかしその勇気はなかった。最悪の場合、その瞬間を無反応に演じきる自信はなかった。しかし娘の話だと、彼はIT企業で働いているはずだ。やはり別人なのだろう。
「彼女は、あなたのことをなんと説明なさったんでしょうかね、父親に対して。職業とか、いろいろ。」
「それが・・・売れない脚本家と言ってしまうと、生活力がないのはだめだって猛反対されるので、コンピュータ関係の仕事だ、と脚色しているようなんです。」
「ほう。嘘をついてしまったんですね。」
「いえ。まったく嘘というわけではないんです。私はデータベース・プログラムを勉強しましたので。ときどきフリーで仕事を受けています。そちらの方が収入になっているんです、実は。」
「ああ、そうなんですか。・・・あのう、ちょっと聞こえてしまったんですが、しのぶさん、とおっしゃるんですか?彼女のお名前は。」
「ええ、忍耐するしのぶ、って自分で言ってるんです。忍耐の忍と書きます。」
「ほう、そんなに忍び難い生活を送っていらっしゃるんですかねえ?」
「いえいえ、それはジョークなんですが、実際に忍耐強いと思いますよ。」
「ははは、そうですか。・・・で、まさか『大竹忍』さんではないですよね?」
「いえいえ、まさか。・・・大野忍といいます。」
「ははは、大竹忍さんではなく、大野忍さんですか。あはは・・・そうですか、そうですか。」
 男の笑顔は引きつっていた。ここで、私は忍の父親の「大野和男です」と言ったら、この青年はどんな表情になるだろうか。
 確かに私は、忍の頼みを聞き入れず、三人で会うことを拒んでいた。正当な理由は、考えてみれば何もない。不幸の使者である男と会うなんて。ただ感情的な思いだけだった。だが、本当にそうなんだろうか。忍が家を出て幸せになることは、親として願うべき状況なのに、相手のことをろくに確認せず、頑迷に反対し続けているだけではないのか。
「彼女とはこれから、夕食なんです。作戦会議なんですよ。これも何かのご縁ですから、ご気分が大丈夫でしたらご一緒していただけませんか?彼女もそう言っていますから。是非。」
「いやいや、私なんかがご一緒したら、忍がびっくり・・・いや、忍さんがびっくなさいますよ。」
「どうしてですか?そんなことありませんよ。」
「いえ。あなたとも初対面ですし、今日は思いがけず体調を崩してしまって、自信がありませんから。せっかくですが、ご遠慮させていただきます。お気持ちだけ頂戴します。ありがとうございます。」
「そうですか。折角いろいろ有意義なお話しをお伺いできたのに、残念です。お引き留めして、かえって失礼しました。でも、不思議ですね。偶然お会いしたばかりなのに、なぜか他人のような気がしません。」
 そりゃそうさ。もうじき君は他人じゃなくて、我が家の一員になるんだろうから。
「お一人で大丈夫ですか?」
「ええ、もうすっかり元気になりました。ショック療法のおかげですよ。」
「はい?」
「いやいや、お若い方からエネルギーをいただけて、良かったです。」
「でも、本当にお名残惜しいです。また近々お会いするような、そんな予感がしますよ。」   
 おう、そうとも。君はなかなかいい勘をしている。まるで予言者だ。
「あまり多くは語れませんが、もう一度、彼女から三人で食事でもどうかと、誘ってみたらいいんじゃないかな。きっとうまくいくと思いますよ。そんな気がします。」
「そうですか。ありがとうございます。そうします。」
「うん、そうなさい。必ずうまくいきますよ。さあ、どうぞ、いらっしゃってください。私のことを気遣ってくれて本当にありがとう。私はもう少し息を整えてから帰ります。どうぞ、お構いなく。」
 青年は深々と頭を下げて帝国ホテルの方に向かって歩き始めた。途中、二度振り返って頭を下げ、木陰に姿を消した。律儀な青年の態度に、思わず微笑みを返していた。

 いい青年じゃないか。もし今日、ここで体調が悪くならなかったら、私はこのベンチに座ることはなかった。そこにいた青年が、顔色の悪い病人との関わりを避け、私から離れて行くような人間だったら、個人的な会話はなかった。もし、途中で忍から電話がなかったら、この青年が娘にとって大切な存在であることに気づかなかっただろう。そして、娘がまた、三人で会ってほしいと言ってきても、おそらく頑迷に拒否しただろう。
 もしこうだったら、という選択肢ごとにストーリーが変化する映画を、何十年も前に観たように思うが、思い出せない。

 この偶然は、娘の執念によって引き寄せられたものだと認めざるを得ない。世俗の恥辱と垢にまみれた五十五歳の人間に較べれば、無垢な娘のためにこそ、多くの可能性と達成感が用意されてしかるべきなのだ。異論はない。
 さて、難問が一つある。次に三人で会うとして、彼にはなんて挨拶しようか。はじめまして、ではおかしいだろう。こちらが忍さんですか?では、もっとおかしい。人間、年を経てくると、若い連中には思いも及ばない苦労が待っているものだ。    
 

  • 昼寝ネコさま
    「~そして時をとめおき 
    時に先んじようとして 
    ただ走ることしかなかった 
    そして息切れしてしまった~

    今は、今は、わたしの20歳は
    どこへ行ってしまったのか?」

    このシャルル アズナブール作詞作曲の名曲「帰り来ぬ青春」は街のどこにでも彼のハスキーな歌声が流れていました。

    妻を亡くした男といずれムコ殿になる青年との偶然の出会いが、そのコミカルな会話と共に読む者に心温まる物語を伝えてくれました。娘がつれ戻してきてくれた青春ではないかと思います。人が自分自身と子供と孫の三代にわたるそれぞれの青春をどのような意味でも、味わえるのは天のお恵みだと感じます。とは言え、当方さすがに孫の青春までにはもう少し時を待たなければなりません。
    -- 岸野みさを 2014-06-23 (月) 17:55:05
  • 岸野みさを姉妹
    アズナブールが、そんなに流れていたとは知りませんでした。20代からずっとビル・エヴァンスと並行して聴いていました。今でもいいなと思います。あまり過去は振り返らないんですが、年齢のせいか最近は少し懐古的になっています。この「ベンチウォーマー」は、割とイメージがはっきりと思い浮かびましたので、頭の中で考えて作ったというより、脳内で見たままを書いたという感じです。私も宣教師の年齢と孫の年齢が重なるようになって来ましたので、宣教師に親近感を持つようになっています。松本楼、日比谷公園、帝国ホテル、宝塚劇場・・・あの辺りは思いでも多く好きな場所です。なので、アズナブールのこの曲想にはとても共感を覚えます。 -- 昼寝ネコ 2014-06-23 (月) 20:58:41
  • 昼寝ネコさま
    見たままを書く、これぞ作家の醍醐味ですね。しばしば、見ることが出来ますようにお祈りしています。
    -- 岸野みさを 2014-06-23 (月) 21:10:25
  • 岸野 みさを姉妹
    そんなに始終いつでもという訳にはいきません。歩いている最中とか、車を運転中とかで、仕事中はまったくダメですね。人からいいお話しを聴いているときは、閃くことが多いです。とくに教会の集会でのお話しは、エピソードの宝庫だとかじることが多いですよ。 -- 昼寝ネコ 2014-06-24 (火) 00:01:35
  • 二つも音楽を聴きながらこれを読めて、贅沢なご馳走でした。何だかとても癒されました。曲もいいですね。私はビル・エヴァンスの方が。娘を思う父親の気持ちってこんなものなのですね。面白さの中にしみじみとした愛が感じられる良い作品です。また出会いの不思議さもしみじみと感じます。私にも日比谷公園は思い出の場所です。 -- あらら 2014-06-24 (火) 13:19:07
  • あららさん
    お読みくださって有難うございます。ビル・エヴァンスを初めて聴いたのは40数年前の高校生の時でした。音楽的偏食家なのだと思いますが、ジャズピアニストはビル・エヴァンスしか聴いていません。記憶が還っていける思い出の場所があるというのは、いいものですね。誰の思い出にも感傷が伴い、しばしの懐古かもしれませんが、必要な時間だと思います。 -- 昼寝ネコ 2014-06-24 (火) 14:45:48

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