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2014.08.12 自分史・家族史「室蘭空襲」  投稿者:松下 承子

Faith - Mormon Tabernacle Choir
 
室蘭空襲                              
 
 
松下承子

私の誕生は、1932年のことで1939年9月1日の第2次世界大戦がはじまった時は7歳でした。当時父は北海道室蘭市にあった日本製鋼所(大戦当事も同じ名前か不明)で働いていました。軍事工場であった日本製鋼所の職員は優遇され、色々な食料が配給になりました。真珠湾攻撃や フィリッピン攻撃で、勝った勝ったの放送に喜びわいていました。やがて、親戚や近所の男性が出征に行くようになり、軍事工場で働く者に対する食料の配給も無くなって きました。

このころから父は、他の人には言えないが戦争の雲行きが怪しいと話していました。父は当事日本製鋼所の防災指揮官を務めていました。戦争が激しくなり私の姉二人は学徒動員で日本製鋼所に働きました。

だんだん戦争も雲行きが悪くなり、海に近い室蘭は船からの艦砲射撃が激しくなり、空からはB29 の攻 撃でお昼になると、空襲警報が鳴り、手製の防空壕に入る生活が続きました。父は艦砲射撃の間も何処に弾が落ちたか、本部に報告するため防空壕から防空壕に移動しながら報告をしました。皆に今出たら命が危ないと、何度も止められたけれど「俺の責任は状況を報告することで、壕にいては役にたたない」と任務を貫きとうしました。 帰ってみたら防空壕が艦砲射撃にあって亡くなった人がいて、父が本部に行くと生きている事に驚かれたと、話してくれました。

戦争はいやですね。でも父の責任の強さを学ぶことが出来、今でも思い返し守られていたことなどに感謝しています。我が家では父が作った手製の防空壕で、そこで夜を過ごしたのも度々でしたが、庭に咲くお花を目掛けて飛行機からの機銃掃射が度々でどこの家もお花を刈り取るようになりました。

それから私と妹は叔母の家(今の伊達紋別)に疎開しましたが妹が毎日泣くので死んでもいいから両親のところに帰ることにしましたが、線路が爆弾で破壊されたところが多く複線が単線になってしまい、帰るのに(当時2,3時間で帰れるところ)一日 掛かりで帰ったのを忘れません。とても怖かったのですが、妹のために、大丈夫、大丈夫と励まし合いました。

戦争はいやですね。それからは家族みんなで、窓はテープが張られ、電灯にはカバーが掛けられ、ズボンのまま寝るという生活が続きました。1945年8月6日 広島 に原子爆弾、続いて8月8日は長崎に原子爆弾、当事は広島、長崎には人間は住めないと言われて驚きました。

戦争はいやですね。船からの艦砲射撃の あとは、町中に大きな穴が開き電柱には人がぶら下っていることもしばしばでし た。

戦争はいやですね。8月15日の天皇陛下の玉音放送で終戦。日本は無条件降伏でしたが、良いか、悪いかよりも、戦争が終わったことにアンドしたのを覚えて います。

それから、食料難が始まりました。空き地は全て畑に、女4人 姉妹であった私達の雛人形や兄の5月人形や着物や、これという食器類なども全部食料に変りました。あの当事は何処の家も同じように田舎に買出しに 行ったのです。

戦争はいやですね。そんな生活が続いて、やがて私も室蘭家政女学校に合格して入学しましたが、小学校6年中学3年高校3年の 6,3,3の制度に変わり、せっかく受験して入った女学校は授業料も戻らぬまま、自動的に高校2年になることに反発してやめました。タイプライターを 習い就職して働き、収入を得ることに喜びを感じて青春を過ごしました。

戦争はいやですね。世界中どこかで今も戦争がありますが一日も早く世界平和が訪れますように。あの当事夢中で過ごした日々を、現在の平和な生活、信仰を受け入れた喜びの生活の中で忘れかけていましたが、改めて思いかえすことが出来感謝しています。散文にて。
 
 
 

  • 両親はともに室蘭の生まれです。母の父親である私の祖父と、母の弟二人も日本製鋼所勤務でした。祖父は40歳前に、仕事の無理がたたって早世し、祖母と母が御前水で小さな食料品店を始めました。小学生になって、よく泊まりに行きましたが、線路の向こう側に建ち並ぶ三角屋根の工場群を、よく憶えています。もしかしたら、お父さまと私の祖父や叔父たちは当時、面識があったかも知れませんね。懐かしい思いで読ませていただきました。 -- 昼寝ネコ 2014-08-12 (火) 13:20:23
  • 松下承子姉妹
    貴重な経験を分かち合って頂きありがとうございます。松下姉妹の任務遂行のための意志と行動力の強さはお父上さまからのDNAであり、受け継ぎであったことが分かりました。
    また、教会内外で、垂れた手を強くし、か弱い膝を助け起こして来られた原点は戦時下に
    妹さんを「大丈夫、大丈夫」と言って励まし続けて帰宅したことにあったのでしょうか?
    動いているものは無差別に機銃掃射で狙うことは聴いていましたが、庭先の花々にも機銃掃射を向けるなんて悲しいですね。花だと認識してやったのでしょうか?美しいものだろうが、かけがえのない命だろうが破壊し尽くすことが戦争なんですね。
    艦砲射撃を受けたのは室蘭だけと聞きましたが、電柱に人がぶら下がっている光景を想像するだけで残酷で凄惨です。
    神のご加護のもとに事変下を生き抜かれたみなさまの平和を願う意志を、当時軍国幼児だった私もまた、それを受け継いで次の世代に繋ぐということを微力ながら努めて参ります。 -- 岸野みさを 2014-08-12 (火) 15:23:00

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