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14082401沼野治郎

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2014.08.24 自分史・家族史「引き揚げに際し撮った記念写真 左下が治郎」  投稿者:沼野 治郎

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引き揚げに際し撮った記念写真 左下が治郎
私は引揚者の子供だった
 
 
 
沼野 治郎
 
父が上海の租界地で日本の紡績会社に勤めていて、そこで生まれた私は敗戦が濃厚となった1945年春3歳になって間もない時、まだ乳飲み子であった弟と共に母に連れられて、日本に引き揚げた。幼児を二人連れて、大陸沿岸を北上し、朝鮮半島を南下、船で日本に渡る母の苦労は並大抵ではなかったと思う。日本の列車の中で知り合った見知らぬ人が、気の毒に思って西宮の駅近くの家に泊めてくださり、翌日10キロ離れた家まで家人が歩いて送ってくれたという。

私は1941年11月29日、真珠湾攻撃の数日前に生まれ、実際は戦後派に属するので、戦時・戦後の直接の記憶はほとんどないようなものである。それでも西宮樋ノ口の家から西宮北口あたりが戦火に燃えている様子や祖父が外を歩いていて、低空飛行する米軍飛行機に狙い撃ちされ危うく国道の下をくぐる地下道に逃げ込んだ話などを聞かされて覚えている。また、戦後、自分が武庫川の堤防を走る進駐軍のジープやトラックに蹴散らされるように路肩から弾き出されたのを覚えている。

私たちは先人の苦労を忘れないように、また平和を祈念する国民であり続けるよう、毎年夏に終戦記念日を迎えている。大事なことである。ただ、私が思うに、東アジアの近隣諸国やインドネシア、オーストラリアに至るまで、第二次世界大戦では諸国に迷惑をかけ、被害を及ぼして加害者の側にいたことを忘れてはならないと思う。

2009年以降2年間、中国ハルピンで日本語を教えていたとき、日本が彼の地で毒ガスを開発・製造していて、その過程で中国人を人体実験したことなどがあって、私がそのことを申し訳なく思う、と現地の人に言うと、いや、それはもう歴史的な事柄(もう過去のこと)だから・・と返されたことがあった。それでややほっとしたのを覚えている。この種のことは相手方からそのように言われて気持ちが救われる筋合いのものであると弁えたい。世代が代わると人々が対等に自然に行き来するのは、それでよいのであるが、不都合ないきさつを忘れ去ってよいというものではない。
 
 
 

  • 投稿をいただき、お礼申し上げます。有難うございました。

    戦争を知らない世代が圧倒的に多くなってきました。世界中で起きている戦争や紛争も、日本とは無関係のような捉え方をする人たちも多いと思います。戦争を決断し実行する政治家や軍部とはまた別に、民間レベルでの理解や信頼関係はとても重要な交流だと思います。

    とくに、中国や韓国との間には難しい課題が山積していますが、せめて個人レベルでの、好ましい人間関係が醸成されることを願って止みません。 -- 昼寝ネコ 2014-08-24 (日) 23:12:35
  • 沼野治郎兄弟
    「戦争の加害責任」について、私は軍国幼児でしたが10歳くらい年上の軍国少女だった方に同じような意味の質問をしたときの答えは「世界中が戦争をしていた」というものでした。戦争責任なんてどこにあるのだろうかと思いました。 -- 岸野みさを 2014-08-24 (日) 23:40:13

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