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2016.01.19 自分史・家族史「2階から落ちた妹」 投稿者:岸野 みさを

2歳下の妹は先週の水曜日(12月9日)お天気がよかったので、2階のひさしに出て窓拭きをしていた。ところが靴下が滑って2メートル50センチ下の庭に落下してしまった。幸いシートの敷いてあった土の上に落ちてコンクリートからはそれていたが、左の肋骨が2本、右が1本損傷している。右脳側にくも膜下出血ができたので薬で散らしている、と今は亡き弟の嫁からのメールだ。なんてこった!

2012年7月に弟がガンで死んだ。暫くすると妹が寝たきりになって起き上がれないと連絡が来た。ある朝、急にそんな事態に陥った妹は、働き者で口は八兆手は八兆ではなく、口は人並み手は八兆、笑いを絶やさず人当たりがよく、やることが速くてきちんとしていて申し分ないので、あっちこっちの民宿からひっぱりだこだった。数年前までは自分も民宿を営んでいたのだがもう歳だからと止めたのに、尚、ご近所さんがほっといてくれなかった。結局働き過ぎで体の首や肩、足腰が拒否反応を起こしたように動かなくなってしまったのだった。それからの3年間というもの必死の治療の甲斐があって、最近はそんなことはウソだったかのように再びシャンシャン動いて、私などは変形性膝関節症でグズグズしているのに「あんたは、治って良かったねぇ」と褒めた矢先の落下事故だった。

落ちたといえば私が5歳頃2人で母屋と土蔵の間に在る池の周りで遊んでいた時、何かの拍子であっという間に妹は池に落ちてしまった。泣き騒ぐ私の声を聞きつけて具合が悪くて寝ていた母が走って来て救い上げたのだった。偶々母が居たので事なきを得たが、普段は畑に出てしまうと誰もいないので、今思ってもゾッーとする。

その次は2人で梨の木に登っていた時の事だった。先に登っていた私の耳にギャッーという声。下を見るとなんと妹が木にからまっている蔓に仰向けに引っ掛かっているではないか。この時も蔓がなかったら、急斜面にある梨の木から落ちようものなら大ごとになっていたに違いない。

彼女とは2歳しか違わないので色々な思い出がある。山坂にある実家から平地の隣村にある田圃に歩いて通うのだが、農繁期などは朝暗いうちから起こされて半分眠りながら歩き、次の部落に着くころに漸く朝日が昇って来て目が覚めるという生活だった。朝はまだしもそれが夕方田圃から帰る頃は疲れて眠くて、母を見上げると母の背中にはいつも妹が背負われていた。グズル私に母はいつも「一歩だけ歩いてごらん」と言って、一歩だけ歩いていたはずがとうとう4キロも歩いて家にたどり着いていたのだった。

母の実家に行ったとき私は父と一緒に馬に乗り、振りかえると妹は母と一緒に馬に乗って、カッポカッポと木漏れ日の山道を登って行った幸せだった幼き日は遥か遠い。

小学校何年生だったのか2人だけで母の実家に行ったことがあった。帰り道、振り返って
今来た山の上の方の道を見ると馬に乗った男の人がこっちに来る!私と妹は駆け出して走った!隠れた!道の土手の影に隠れて馬が通り過ぎるのをドキドキしながらやり過ごしたのだった。何が怖かったのだろうか。やがて途中にある親戚の家に寄ると「あれ?あんたたちどこにいたの?」さっきの馬上の男の人だった。私も妹も無言。「姿が見えたのにいなくなっちゃったので心配したんだよ」と男の人は言った。近年、妹に「あの時の事覚えている?」と聞くと「覚えているわよ。怖かった」と言った。

これより小さかった頃父母は遠いところの山に炭焼きに行った。妹と2人でそこへ行こうと話をして近くの崖のところまで行ったが下駄をはいてきた妹は足が残雪で濡れて冷たくなって泣いた。「帰る」と言って祖母が待っている家に戻った。実は祖母には何も言わないで出て来たのだ。言えば止められるのが分かっていた。私は1人で以前父母と通って覚えている道を歩いた。一生懸命歩いた。人家が見えなくなって山の中に入って行くとガサゴソという何かの音に怯えたが父母のところへ行きたい一心で夢中で歩いた。そして、とうとう到着した。母は私を見つけて「まあ!よく来られたわね!」と驚いて、叱ることはなかった。

幼児の頃私と妹は隣の本家に行ったときスイカを頂戴した。真っ赤なスイカでとても甘かった。ところが妹を見るとスイカの皮の方からかじりはじめているではないか。おばさんも「こっちの赤いほうから食べなさい」と言った。家でもスイカを食べたことがあるのに、食べ方が分からなかったのではなく、美味し物は後で食べる、とう事らしかった。そんな妹は農作物を作ることの極め人になって野菜を近くの道の駅に出すほどになった。生産者の名前入りで出荷するのだ。今年も11月に白馬に行った時、アンデスレッドといううす赤色のじゃがいもの新種を育てて沢山頂戴した。北海道育ちの夫からジャガイモだんごの作り方を教えてもらった。ジャガイモを湯がいて潰して塩少々とカタクリ粉を混ぜて、油で揚げるだけの簡単レシピだ。孫たちが美味しい美味しいと揚げたてを食べた。数日後、今度は男爵で作ってみた。「ウン?この間のと何か違う」と孫娘に言われてしまった。アンデスレッドはサラダ向きで甘い。また、皮は黒いが切り口は黄色の黒じゃがいもも頂戴した。こちらはジャーマンポテトにして美味しかった。

豆ではあおばた豆を多く作り、私は一晩水に浸して湯がき、ポン酢で食すのが好みだ。他にも妹は、金時豆、黒豆、茶花豆、白花豆、鞍掛豆と作る種類が多かった。

豆と言えば好きな詩がある。
伊藤整の「雪明りの路」の巻頭の詩「春日」です。

「春の畑に老婆がひとり
土は俄雨と太陽の熱とで気持よい暖かさを抱いてゐる。
老婆は軟い畑に畝をつくり
黒土の穴に
真白い豆を一つ一つ並べてゐる。
その豆の間違いなく萌え出るのを知るもののやうに
ていねいに
いつくしみつゝ土をかける。
この老いたる女と白き豆とに約束あり
夢みる太陽の廻転するいま
老いたる女と白き豆とに約束あり。」

先日白馬に行ったとき、思いのほか元気だった妹は「もういろいろ野菜も作れないわ」と淋しげに言うのだった。「今まで頑張りすぎたので、ちょっと休憩で丁度いいんじゃない?」
「そうね」「元気になったらジッとしてなんかいないあんたじゃない?」「ハハハハ」と彼女はちょっと笑った。

今回の落下事故で検査の結果脳に腫瘍があることが分かって3月頃治療を始めるという。

子どもが大好きなのに娘は未婚で、息子はバツ一で嫁取りに懲りている。更に、夫はボケかかってきた。

姉妹として育った彼女は特別な存在だ。信心深い彼女にイエス・キリストを信じる信仰を伝えたいのだが、息子や娘の世話になる弱い立場になった今、私の方に躊躇がある。若かった頃一度は伝えたのだが教会が2時間かかる松本市にしかなく、農家に安息日を教えるのが難しかった。

  • 中学生のMS君には好きな子がいました。注目をあびようと、カッコつけて踊り場の窓から校庭に飛び降りました。ギクッ! 保健室の先生の自転車で骨折院に運ばれました。複雑骨折。いまも右足首付近に小さなコブが残っています。どこからでも落ちるのは痛い。『青春とは愚かな実験である』by 司馬落 遼太郎 -- 黒う澤 明らめ太 2016-01-20 (水) 18:05:29
  • 黒う澤 明らめ太さま
    そんな青春があったのですか?痛々しいですね。で、好きな女の子は何て言ったんですか?「そんなの自己責任や」とか? -- 岸野みさを 2016-01-20 (水) 21:00:13
  • 幼少時ガムを噛む事を親から禁止されていた妹が、道路に吐き捨てられていたガムを我慢出来ずに噛んで、近所のオバサンにチクられていた経験を思い出しました。兄妹だけの秘密の過去というものは誰にでもあるものですね。 -- ペパーミント 2016-02-17 (水) 21:52:21
  • ペパーミントさま
    笑えない失敗が沢山あります。「禍福は糾える(あざなえる)縄の如し」と思って生きてくるとその通りになりました。 -- 岸野みさを 2016-02-18 (木) 12:51:01

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