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2017.11.12 自分史・家族史「思い出の旅日記―北東北」 投稿者:岸野みさを

 芭蕉が詠んだ「さみだれの降り残したる金色堂」「夏草や兵ものどもが夢の跡」の平泉へ行った。藤原清衡、基衡、秀衡三代の遺体と四代目泰衡の首が収められている金色堂は上記名句通りであった。

 2011年7月に「平泉」がユネスコ世界遺産に登録された。中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山がその構成である。
(以下世界遺産平泉より抜粋)
 中尊寺は嘉祥3年(850)比叡山延暦寺の高層慈覚大師円仁によって開かれ、12世紀のはじめ奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な営塔造営が行われた。清衡公中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前9年・後3年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なくなぐさめ「みちのく」と言われ、辺境とされた東北地方に仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設するというものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の不戦の決意でありました。
 
 次の日、花巻温泉佳竹園で鹿踊(シシオドリ)を観た。まず、チャグチャグ馬っ子の本物が関西の修学旅行生のために披露されていた。立派な毛並みの美しい馬だ。「後ろに行かないで下さい。蹴られますよ」と馬方が言った。本物に出会ったことを一番喜んだのがバスガイドの西村さんだった。
 昼食は東家のわんこそば。私は10杯で少なかった。支社対抗でHさんが71杯で3位だった。わんこそばとは側で接待者が「それ食え、それ食え」と言わんばかりにそばひとかたまりを椀の中に放り込むのだ。そばの味も何もわかったもんじゃない。

 そのまた次の日、ロープウェイで八甲田連峰に登る。ゴンドラが真っ白い霧の中へ入ると「皆様、次は天国です」と誰かが言った。皆笑った。「地獄だったらどうしよう」と他の誰かが言った。又、皆笑った。頂上も真っ白で何も見えなかった。ホント、天国か地獄か?

 霧を見つめていると八甲田山雪中行軍遭難事件のことが胸をよぎった。八甲田山(ハッコウダサン)は、青森市の南側にそびえる複数火山の総称で日本百名山の一つ。「八甲田山」と名がついた単独峰は存在せず、18の成層火山や溶岩円頂丘で構成される火山群である。
 明治35年(1902年)1月23日に青森市街から八甲田山の田代新湯に向って11日間の日程で出発した日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊210名中199名は悪天候と猛烈な暴風雪に襲われて死亡した。(内6名は救出後死亡)世界山岳史上最大の悲劇でロシアとの戦争に備えた「雪中行軍」だったが、遭難の理由として指摘されたのは「準備不足」だった。

●気象条件(以下ウイキペディアより引用)
 雪中行軍が行われた時は、冬季に典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた。日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもあった。青森の気温は例年より8°Cから10°C程低かった。青森市内の青森測候所の1月24日の観測記録では最低気温が−12.3°C、最高気温は−8°C、最大風速14.3m/秒であり、山間部ではこれより厳しいものであった。行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、『遭難始末』は−20°C以下だったと推測している。

●生存者
 最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)の11人のみであった。
 生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外、その全員が凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症な方では、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。その他は四肢切断(一部は両下肢と手指部のみ)であった。また、一番元気だった倉石大尉は日露戦争の黒溝台合戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。

●生存者の小原伍長の証言によれば、誰も予備の手袋、靴下を用意しておらず、装備が濡れてしまったら換えはなく、そこから凍傷が始まり、体温と体力を奪われ凍死していったという。小原伍長自身も「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。
(引用終わり)

 十和田湖は雨だった。遊覧船で一周した。水深326m、東京タワーが隠れる深さだ。「阿寒湖と十和田湖は特別名勝天然記念物に指定されているので倒れた木でも許可なく切ってはいけません」とのガイドの説明があった。丁度、道路の先に木が倒れかかっている。水深一位は田沢湖。二位は摩周湖、三位が十和田湖だそうだ。十和田湖畔の乙女の像は高村光太郎最後の作品で、体は19歳、顔は妻の智恵子の顔だという。

「津軽の昔話保存版」によれば、十和田湖にまつわる伝説が二つあった。「悲恋の湖」と
「竜になった娘」だ。前者の話は体の弱かった娘を持つ長者が「十和田湖畔に住めば空気も綺麗で温暖なので元気になるよ」と一人の旅人から教わり、野越え、山越え、はるばる十和田湖までやってきて、そこに住むと、娘は見違えるように元気になったそうな。「そんなある夕暮れのこと、世にも妙なる笛の音がきこえてきたど。娘っこが思わず笛の音のする方へ行って見ると、大きな岩の上で、一人の若者が一心に笛を吹いておったど。笛の音は次の日も、また次の日も聞えてきたど。娘っこはその度に出かけて行き、若者の笛に耳を傾けたど。……さて、夏も終わり秋となって、湖から吹く風もだんだん冷たくなってきたころだ」家に帰らなければならないと言う長者に娘は「おらぁいやだ。絶対家さ帰らねぇ。おらずっとここにいてぇだ」と言ってぷいとでて行ってしまう。気が付くといつもの大岩のところにきてみたが、どういうわけか若者の姿は見えず、その時ピーヒャラ、ピーヒャラといつもの笛の音が湖の中から聞こえてきて、娘はそのまま湖の中に吸い込まれていき、魚になってしまった。後を追いかけてきた長者夫婦も入水して魚になってしまったという話だ。後者も娘が竜になってしまって「おとう、おかあ、今までよう育ててくれた、おらはこれからずっとこの湖で暮らすだでたっしゃでな」と言って湖の中へ姿を消してしまう。

 遊覧船で十和田湖の奥深く進んで行くと確かに水深の深さゆえにその伝説が説得力をもつことを感じた。とっちぱれ!(めでたし、めでたし)
以下はとっちぱれの異なる言い方。
どっとはらい
どっとはれ
どんどはれ
とっぴんぱらりのぷう
どびーん

 石川啄木、高村光太郎、宮澤賢治、原敬、新渡戸稲造、北東北が生んだ傑出した人物たちを偲ぶ旅だった。宮澤賢治記念館にも行った。
 ある時代、あるアメリカ人の伝道部長が初めて日本に来て第一声を発したのは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」だった。どんなに感動したか推察できますか?
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 これは宮澤賢治の代表作として後世に伝わっているが、昭和6年11月3日の日付のある手帳に病床で書き留めてあったもので死後発見された。
 

  • 我が家の子供たちは寝る前に昔話をいつも聞いていました。でっち上げの昔話の最後はいつも「とっぴんぱらりのぷぅ」で締めくくってました。なつかしい。 -- ふわふわの 2017-11-13 (月) 12:47:45
  • ふわふわの様
    昔話の読み聞かせって懐かしいですね。「とっぴんぱらりのぷう」でしたか。私的には「どびーん」ですかね。 -- 岸野みさを 2017-11-16 (木) 20:51:34

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