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2018.02.10 穀粒記者レポート「土定という死の形―白馬村文化遺跡探訪 ユーテレ白馬による」投稿者:岸野みさを

 新年早々ケーブルテレビ白馬で白馬村文化遺跡探訪「土定(ドジョウ)という死の形」の番組を観た。
白馬村の大出(オオイデ)という地区にある「六部塚」と立ての間という地区にある「松澤」さんの墓だ。ナビゲーターは民族・日本思想史家の白馬村在住田中欣一先生である。
田中先生は日本人の死に方の研究をされていて、何百種類もある中で「土定」は昔から最も素晴らしい死に方であり文化であると話されていた。

 大出から新田という地区に向う古道で、その先は千国街道と合流する道の傍らに六部塚はあった。畑の側で少し先には民家が見える。
 六部塚(墓)の石碑には正面に「大乗妙典」と掘り込まれていて、その下に日本廻国66部とある。大乗妙典は法華経の一つで66部は信濃の国とか薩摩の国というように66の国を意味し、略して6部とも言った。鎌倉時代から始まったと言われている廻国巡礼は巡礼僧が厨子(リュックのようなもの)にお茶碗とか箸、着替えなどを入れて托鉢をしながら、全国を廻り大乗妙典を配布したという。石碑の左側には墓の主の名前が掘り込まれているが、長年の風化で文字が摩耗しているので、夜になってから懐中電灯を横から照らして文字の凹凸を読み取るそうだ。そこには「出国日向(宮崎県)中部永井村、俗名平治良(ヘイジロウ)とある。日向は現在の延岡市永井村である。

 右側には文政8年酉年12月29日とある。1825年、約200年前のことだ。平治良は延岡から遠路はるばる歩いてきて大出の御堂で坊主のように生活し、子供たちに読み書きを教えていた。年月が過ぎ去り年老いた彼は「もはやこれまで」と死期を悟り、地面に穴を掘り、そこへ座り、断食に入る。穴には3段か4段の梯子が掛けられていて村人がそこから下に降りてお椀に入れた一杯の水を手渡す。穴の内側には簡単な柱を立てて屋根を造って雨露をしのぐ。20日くらいは生きていたであろうが、やがて息絶えると、村人が穴の土を埋戻し、木の墓標を立てたり石を3つほど乗せたりする。また、坊さんが簡単な葬式を行う。
 手前には馬頭観音があって、いくつかの石碑もあって、この一帯を六部塚という。

 立ての間池の峯には松澤(下の名前は不明)という山伏の塚がある。こちらは立ての間から塩島地区に通じる古道の側にあった。円墳といって塚の大きさは直径4m50くらいから5mの丸い丘のようになっている。普通、墓石は四角だが角が無く丸い石碑を無縫塔と言い、山伏や僧侶の墓に用いられ、塔身が卵形をしているので卵塔とも言うそうだ。
 円墳の上にある卵塔には文字の跡があるが、風化されてしまい田中欣一先生でも文字を読むことができない。台石は大出と同じような蓮華を模っている。円墳の向こうには浅間山(センゲンサン)が見える。日本全国に浅間山と呼ばれる山は30数体ありここはその中で一番低いそうだ。山頂の浅間神社には石垣が残っていて、戦国時代の「のろし台」がある。そこへ行く途中にあるお宮には木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が祀られている。木花咲耶姫は天照大神(アマテラス オオミカミ)の孫であるニニギノミコトの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

 円墳の主は、9代目の松澤嘉門さんの説明では、戸隠の楠川からやってきた山伏であるという。現在でも宿坊をやっている「越志(オシ)」家と関係があるようで、浅間山神社を建てた延宝8年(1680年)には居たと語り継がれている。享保2年(1717年)に1代目は「もはやこれまで」と死期を悟り、自分は既に体が衰弱しているので村人に穴を掘ってもらい、そこへ入って座禅を組み、穴に蓋が被せられて土をかけられる。陽が当たらない真っ暗闇の中で節を抜いた一本の竹筒が差し込まれて、そこから空気を吸い、お椀で竹筒に流し込まれるお茶を飲む。また、「おーぃ、法眼(山伏の敬称)さま、元気かぁ」と竹筒を通して呼びかけられると手にしていた鈴をチリチリーンと鳴らす。7日ほどで鈴は鳴らなくなったと9代目は語っていた。

 山伏は天台系(比えい山)と真言系(高野山)があって、この松澤さんは天台系だという古文書があるそうだ。不動明王が本尊として9代目の自宅に祀られていた。炎を背にして目ん玉をむいた形相で立っている。成田山の不動明王といえばお分かりだろうか。への字に結んだ口から犬歯がはみ出ていて左の犬歯の尖った先は下を向き、右は上を向いているのが特徴だ。

 番組の概要は以上で終わるがウイキペディアで調べてみると「日本で最初に入定したのは空海で、空海は死んでおらず現在も高野山で入定しているというのが、空海が居住している高野山の公式見解である」そうだ。

 江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ民衆を救うために、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。現代では入定を幇助すると自殺幇助罪または死体損壊罪・死体遺棄罪に触れるため、不可能である。

 2018年1月21日評論家の西部邁(ニシベ ススム78歳)氏が極寒の多摩川に入水し死亡した。まさに土定、火定、水定の中の水定だと思った。「保守の真髄」という自身の著書の中で「自我死」を正当化している。


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