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18062201工藤駿一

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2018.05.31 穀粒記者レポート・『祝5周年記念ー 建築宣教師の足跡 第4回』投稿者:工藤駿一

第2章 福音の進行
グラント一行の長い伝道本部場所探しの試練

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思えば、1901年(明治34年)8月12日、伝道の為に初めて日本に足を踏み入れた初代伝道部長ヒ−バー・J・グラントとその一行は、横浜港着岸するや否や近くのグランドホテルに滞在し、まず自分たちの落ち着き場所探しから始まったのです。16日に下宿先は見つかり、横浜市山手24番地に移動しました。その後,

10月には東京市京橋区築地明石町1番地のメトロポールホテルに移動。
1902年(明治35年)6月東京市京橋区築地五郎兵衛町二十番地の中央館に転居。
7月東京市四谷区霞ケ丘町十六番地を貸借伝道本部とする(グランド、エンサイン)
9月東京市神田区鈴木町十七番地、日昇館に移る。(テーラー、ケルチ)
1903年(明治36年)9月8日第二代伝道部長として、ホレス・S・エンサインが召される。
9月18 日ヒーバー・J・グラント初代伝道部長帰国。

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1904年(明治37年)2月10日日露戦争勃発(日露戦争とは、朝鮮・満州の支配権をめぐり日本とロシアの間でおこなわれた帝国主義的戦争です。1904年に日本の旅順攻撃で開始し、翌年に日本は奉天を占領、日本海海戦の勝利によって軍事上の勝敗はほぼ決定しました。1905年9月にアメリカのポーツマスで講和条約が結ばれ、日本の勝利で幕を閉じます。その結果、日本は韓国の保護権が承認され、ロシアからは南樺太、南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権を得ることになりました。(honcierge.jpより引用)

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1905年(明治38年)7月8日ホレス・S・エンサイン二代伝道部長任期終了。
同年同日第三代伝道部長にアルマ・O・テーラが召される。テーラーは大管長会から手紙を受け取る。「午前中に出かける直前に,アメリカからの郵便を受け取った。教会の大管長会からの手紙のうちの1通はエンサイン会長とその妻を解任するもの,もう1通はわたしを日本伝道部の会長の職に任命するものだった。わたしが受けた任命の手紙には,エンサイン長老がわたしを伝道部会長の職に任命するために按手する必要はないと明記されていた。」
8月1日第二代伝道部長ホレス・S・エンサイン帰国。
9月5日ポーツマス講和条約(日露講和条約)締結調印。
10月14日日露戦争終結。
1906年(明治39年)3月7日米、カリフォルニア州議会は日本人移民制限決議案採択。
3月21日テーラーはついにモルモン書の日本語翻訳をついに完成させた。『わたしは1904年の1月に翻訳を始め,空いた時間を見つけて作業を行っていたが,ほとんどの時間は伝道とそのほか伝道に関する事柄にとられていた。6か月間,作業はこのような形で行われ,その間,わたしはニーファイ第一書の8つか9つの章の翻訳しかできなかった。進度が遅すぎたため,同じ年の7月16日,わたしはそのほかの事柄を後に回し,翻訳を行う特別な任務を受けた。そのときから今朝まで,わたしは熱心に翻訳を行い,天の御父の助けにより今日きょう作業を終えた。』
12月28日日米相互移民禁止条約締結提案(エリフ・ルート米国務長官)
1907年(明治40年)米、日本人労働者移民の渡航制限を要請。
1908年(明治41年)11月19日東京府下千駄ヶ谷町八百七十番地に移転。
1909年(明治42年)5月1日東京市牛込区薬王寺前町八十一番地に伝道本部を移す。
9月30日テーラーはモルモン書の完成のため最後のページの校閲をして印刷に回した。

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1910年(明治43年)1月1日第四代伝道部長としてエルベート・D・トーマスが着任。

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10日第三代伝道部長アルマ・O・テーラーは5年5ヶ月の伝道を終え、横浜港から韓国と中国に向かって離岸。3月19日に再び東京に戻り、30日に帰国した。
1912年(明治45、大正元年)7月29日明治天皇崩御 元号が明治から大正に改元 なお、実際の崩御は7月29日午後10時43分頃」と言われているが、宮内省告諭に拠る崩御日時は「7月30日午前0時43分」となっている。これは建前上、皇太子嘉仁親王が践祚して新帝となる一連宮中儀式を崩御当日に執り行なったということにせねばならなかったからだと思われる。 明治天皇は明治国家そのもの明治天皇の死は明治国家の終焉」と認識されていた。大喪の日には、陸軍大将乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、変容していくこととなる。

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非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価は日本国内以上に高く、エチオピアのハイレ・セラシエ1世やパラグアイのアルフレド・ストロエスネル、イラクのサダム・フセインなど、明治天皇を尊敬する人は多い。 明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、約93,000首を超えると言われる。#よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな #よもの海 みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
10月24日第五代伝道部長にH・グラント・アイビンスが着任。

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1913年(大正2年)4月22日第四代伝道部長エルベート・D・トーマス帰国。
1914年(大正3年)7月28日第一に世界大戦勃発。(サラエボ事件発端、ハンガリー皇太子暗殺)
1915年(大正4年)3月11日第六代伝道部長としてジョセフ・H・スティンプソンが着任。
7月24日第五代伝道部長H・グラント・アイビンス帰国。
1918年(大正7年)11月11日第一次世界大戦終結。
19日ジョセフ・F・スミス第6代大管長死去。
23日ヒーバー・J・グラントが第7代大管長に聖任される。

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1921年(大正10年)3月10日第7大伝道部長にロイド・O・アイビー着任。
1922年(大正11年)7月東京府下淀橋町角端八十七番地(新宿駅裏柏木)に伝道本部を移してから本格的に地方に伝道を開始、直江津。長野。千葉県房総半島では、北条を拠点に千葉県をあちこち歩き回り伝道した。
10月11日 甲府で伝道開始。

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1923年(大正12年)08月31日 第八代伝道部長ヒルトン・A・ロバートソン着任。
これらの伝道所の内、ある程度継続されたのは札幌、東京、甲府、大阪の四ケ所であった。
9月1日関東大地震が東京、横浜を襲った。厳戒令発布。
1923年9月1日 AM11:58 M7.9

被害:死者・行方不明者 105,385人(死者数は 142,807人 とも)

全壊109,713棟,焼失家屋212,353棟

(全壊128,266棟,焼失447,128棟とも)
1924年(大正13年) 5月24日米国連邦議会は絶対的排日移民法成立。
6月21日日本伝道部閉鎖
7月31日第九代伝道部長ヒルトン・A・ロバートソン終了。
8月7日ロバートソン長老を始め第五の宣教師たちが横浜港を離岸。熊谷たま乃、奈良冨士哉等見送る。
このように、伝道本部という伝道の拠点は、あちこちに移動転居していたのであります。おそらく8人の伝道部長や宣教師たちは、さどや落ち着いた伝道本部の建物が欲しかったに違いありませんが、しかし、もしかしたらこれも主の導きだったかもしれません。なぜなら、このように日本の国内情勢も一喜一憂な状況が続き、日露戦争や日中戦争など不安な面も多くあり、さらに欧米の日本に対する圧力など、日本がこれから世界の中でどのように立っていけばいいのかを考え、選択する時に来ていたのであろうと思われます。それだけでなくアメリカにおける絶対的排日移民法に対する日本の米国人排斥運動や関東大震災が起きる事など、日本に伝道が開設されて、23年間という期間このように不安定な時が流れておりましたので、主は落ち着いた場所を与えられなかったのかもしれません。

絶対的排日移民法と排斥米人
1924(大正13年)年5月24日、米連邦議会で「絶対的排日移民法」が成立
国内を開拓しつくしたアメリカは、新たな領土をアジアに求めていました。しかし、すでにアジアで力を持っていた日本は邪魔な存在。ヨーロッパ各国もアジアに進出していましたが、有色人種である日本はアメリカ国民の憎悪を向けるのに格好のマトでした。しかも、国内では日本人の移民が西海岸の農地の多くを所有。日本にはロシアのバルチック艦隊を沈めるほどの連合艦隊もあります。アメリカにはそれに対抗する太平洋艦隊はなく、アメリカでは「日本軍襲来」のデマ記事が流れるほど日本を恐れていました。そこで、アメリカのとった戦略が州ごとに排日移民法を成立させること。これにより、日本人の移民を締め出そうとします。それに対し日本政府は交渉を重ねて、なんとか「移民を送らない」というところまで譲歩します。
 その後、日本は国際連盟で「人種差別撤廃条項」を提案。人種差別をなくそうと働きかけます。しかし、これは議長のウィルソン・アメリカ大統領の発言で否決されてしまいます。すると、アメリカでは排日運動が勢いづき、1924年に「絶対的排日移民法」が成立してしまいます。アメリカは国家全体で日本人移民を排除するという意思を示したのです。この法律は日本人に大きな衝撃を与えます。当時の日本人にはアメリカに対する期待や信頼があったのですが、この法律が成立したことでアメリカに対して敵対心が生まれます。このために多くの宣教師たちも例外なく排斥され、身の危険にまで及びかねないように強くなってきたので、1924年8月に日本伝道部は閉鎖されてしまい、その本部はハワイへ移行されました。

日本における暗黒の時代
 1924年(大正13年)から1945年(昭和20年)までの約21年間は、日本の末日聖徒に於いてはまさに暗黒の時代でした。なぜならその間、伝道部が閉鎖され、日本から引き上げてしまったからです。1924年までに改宗した日本の聖徒たちは、この暗黒の時代を光の差す時代まで静かに忍耐しなければなりませんでした。
 1926年12月25日大正天皇崩御、時代は大正から昭和に改元。1927年3月7日北丹後大地震発生西日本全体が揺れ、多くの死者負傷者を出す。1928年6月4日満州において重大事件発生、いわゆる張作霖爆殺事件である。1929年10月24日には、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落、世界的経済不況が起こり、アメリカ的経済政策を取ってきた日本にも大きな影響を及ぼした。1931年9月18日には満州事変勃発、1933年には日本は国際連盟を脱退。1936年には226事件、1937年にはいわゆる盧溝橋事件が発端となり日中戦争(支那事変)が勃発、1937年にはヨーロッパで大2次世界戦争が勃発、その後アメリカとの関係がますます悪くなり、アメリカの「日本いびり」はさらに続きます。当時清国で王朝が滅び、いくつもの勢力に別れて混沌としていた中国の政治に、日本は口を出すなと言ってきたかと思うと、さらに、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる、いわゆるABCD包囲網と呼ばれる日本への一方的な経済制裁を行ったことで、日本の物資の欠乏は深刻な事態を迎えてしまいます。日本はいわゆる先進国からは兵糧攻めに合い、その上、このような、あからさまに日本を敵視した日本孤立化への動きが、実際に真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦に至る以前、数十年間に渡って行われてきたのです。つまり、「太平洋戦争(第二次世界大戦)」とは、そのようなアメリカの「世界の覇権」への執着と「人種差別」的な意識が日本を追いつめたことで起こった戦争なのですが、そのような事実上の「抗争」は、実際に武力衝突が起こる以前2~30年間に渡って繰り広げられていたことなのです。そして、最終的に日本は、自国の完全な孤立化を回避し自国の存続を維持するためには、アジア諸国を欧米の植民地から解放し、それらの国々と一致団結するしか道はないと考えます。日本がアジアを結束させ、指導的な立場に立ち「大東亜共栄圏」をつくることでアジアの独立と団結を一挙に図ろうとしたのです。そしてとうとう「ハル・ノート」という事実上のアメリカ側からの最後通告を拒絶し、「大東亜共栄圏」の実現をめざして、1941(昭和16)年12月08日ハワイ真珠湾攻撃により第二次世界大戦に突入する。12月1日の御前会議で、事実上軍部が指導的地位にあった日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。 なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野吉三郎大使に対しアメリカ政府との交渉打ち切りを指示していた事を、既にアメリカ政府は暗号解読によって察知していたといわれている。ヨーロッパ諸国の戦争突入から見れば、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい、とみなす考えも有る。)。 かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。
 
 パリ講和会議の一件について、アメリカの黒人歴史学者のレジナルド・カーニーは著書の『20世紀の日本人ーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』のなかで次のように書いています。
第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界秩序を元に戻そうと、パリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。
 ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための一四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった一五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる一五番目の提案であった。(中略)人種平等の実現を目指していた日本と、そうでなかったウィルソンとの差がここにでたと言ってもよいだろう。
 もし日本のこの一五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。(中略)アメリカ黒人がほかの連盟の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。(中略)「おそらく世界でもっとも有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。(中略)全米黒人新聞協会(NAAPA)は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は講和会議の席上で、“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」。「全米一二〇〇万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。――レジナルド・カーニー『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』より引用

 主は日本国民に大きな試練を与えたのは、主の真の福音が日本に来たのに、まだそれを受け入れる準備はなされていなかった事によるのではないでしょうか。当時少ない聖徒たちにとっては至難の試練であったはずです。日本は二箇所に原爆を受け、多くの一般市民の戦争犠牲者を出し、また全戦で若き人々を失いました。これ等の尊い犠牲者のおかげで、日本は先進国の植民地にはならなかったのは、主の御心があったためであろうと思います。日本は日露戦争に勝利し日中戦争にも勝利し、怒涛の勢いに乗って南の島々を白人国支配から解放し、白人の人種差別を解消する目的があった事も確かです。
 それでもそんな中で、日本全国には、何人かのシッカリした証詞と信仰を持つ兄弟姉妹達により、教会会員としての絆を断ち切らないように、親身を尽くして働いたそれらの聖徒達によって、絆が保たれていたのです。(この件については別紙参照)本当に小さな熾きではありましたが、確実に灰の中で信仰の火種は保たれていました。特にそんな中のお二方でこの建築宣教師達のお世話をしてくださった、奈良冨士哉・源子兄弟姉妹の活躍は、賞賛に値する限りであるということができます。奈良兄弟は、教会本部より当時の管理長老に召され、姉妹はまだそのときには教会員ではなかったにもかかわらず兄弟の助けをし、MIA、子供日曜学校などを自宅で開き、当時の教会員達を励まし続けられたのであります。そんな奈良兄弟姉妹が建築宣教師のお世話役を引き受けてくださり、食事やお掃除などを引き受けてくださったのであります。主の前に謙遜をそのまま表して手本とされてくださったことに感謝をしております。

マシュ−・カウリ−十二使徒の預言

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 さて1945年(昭和20年)8月15日大東亜戦争(第二次世界大戦)が終って間もない頃、東京はほとんどのところが焼け野原となっており、いたるところで戦争による傷跡の整理と片付け、また戦争の後遺症で経済的にも精神的にも立ち直りが遅れ、まだ多くの人々が焼け出されたままの状態で、バラックの中で生活しておりました。そんな中で終戦後最初の伝道部長クリソードは、日本に伝道を再開すべく、その拠点となる場所を東京都横浜をくまなく探し回ったが、どうしてのこの有栖川宮記念公園に隣接しているこの場所すなわち現在の東京神殿の場所が気になり、その外壁だけしっかり残っていたコンクリートの建物が心に強く残り、クリソード伝道部長(歴代第9代伝道部長)は、軍の技術者を連れてその建物を調査してもらい、結果その建物は基礎も外壁も問題ないという報告を受け、おそらくこの時クリソード伝道部長は、主の霊感を受けていたに違いありません。そしてその思いに従って、心を決めその建物が誰のものであるかを調べ、いろいろな事務上の手続きや当時の複雑な金銭上の問題などを経て、そしてついにその場所を購入したのです。しかし当時日本には建築資材は不足しており、鹿島建設に工事を依頼したのですが、建築資材はGHQ、貿易庁の許可を受けて資材調達をした。そしてソルトレークの教会本部の許可を得て1948年5月1日に工事着工、やがて宣教師たちが住めるように一部が出来上がると、早速アメリカから宣教師の第一陣が着任した。内装をを整え、そしてその建物を伝道本部にするために、1949年7月17日、日曜日の夕刻、東京の広尾の東京神殿の在る所を日本伝道本部として、十二使徒マシュ−・カウリ−によって奉献式が執り行われました。その奉献式には、戦後初めての宣教師たちがアメリカから来ており、その中の一人の宣教師であったテッド・プライス長老は、日記(一部その部分だけを引用)に次のように記していました。
 「その奉献の祈りの中で十二使徒マシュ−・カウリ−は強く霊感されて、『'There will someday be many church buildings and even TEMPLES built in the land.』(いつの日か、この国に多くの教会堂と、さらには幾つかの神殿が建てられるであろう)と預言されたのです。」

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 東京麻布の有栖川宮家の庭園に隣接した場所、まさに東京の臍にあたる素晴らしい場所に、日本伝道本部が建てられ、戦後の日本での伝道が再開されたのであります。その後、韓国と日本の伝道本部として北部極東伝道本部として多くの宣教師たちの伝道拠点となったのです。そこから宣教師達を戦後の東京の街々、及び日本全国に送り出し、また韓国へも宣教師が送られたのです。伝道を再開してから1978年4月5日の東京神殿建設着工日までの間、その場所は極東の伝道本部でありました。まだ東京においても地方においても教会堂と言える建物はなく、日本家屋を購入しそこを改装しながらなんとか集会をしておりました。会員人数が少ないうちはまだそれでも良かったのですが、アンドラス伝道部長の時代には、かなり多くの人々が会員になり、東京のそれぞれの支部でも毎週数名の人々がバプテスマを受けておりました。人数が増えてくるにつれてどうしてもそれに対応できる集会場が欲しいと会員たちも思うようになり、建築資金作りのために各地の支部でいろいろなイベントを企画し実行しました。かなり大規模なことを開いたりまた小規模なイベントなどを開きました。そうして少しづつですが将来のための教会堂建築資金を準備しておりました。しかし前記のように、当時は会社員の平均給与は月2万円前後で1ドルが360円の時代でしたので、大きなイベントを企画してもそれから上がる利益は本当に微々たるものでした。そんな中、時は流れて、1962年夏から開始された建築宣教師制度による教会堂建築が当時のアンドラス伝道部長によって「聖徒の道」に発表されました。
 まさにマシュー・カウリー十二使徒の預言の始まりでありました。すでにアンドラス伝道部長(現:伝道会長)は、それまで各地に将来の教会堂のために、場所を選択し購入してありましたので、まずは東京北支部(現:中野ワード)から建築がスタートしました。そしてすぐ東京西支部(現:吉祥寺ワード)も始まりました。3番目に東京南支部(現:洗足池ワード)、4番目に東京東支部(現:小岩ワード)、そして多くの建築宣教師たちがそれぞれ地方へ、沖縄支部(現:那覇ワード)、群馬支部(現:高崎ワード)、大阪阿倍野支部(阿倍野ワード)、横浜支部(現:白楽ワード)、岡町支部(岡町ワード)というように各地にその建築は広がって行きました。
 この建築宣教師制度の中で建てられた教会堂は各地に及びました。その後、建築宣教師制度は1983年頃までには無くなり、以後一般の建設業者によって日本各地に教会堂が建設されています。それだけではなく東京神殿、福岡神殿そして最近札幌神殿が建設され、まさにかつて日本が大東亜戦争(第二次世界大戦)の終焉により、焼け野原となった東京をはじめとして、原爆で被災した広島、長崎など、現在まで各地に沢山の教会堂がたち多くの日本の聖徒達が集い主の福音を学び、安息日を捧げ、しかも3つの神殿奉献において死者のための儀式を受けております。まさにこれは、日本伝道本部奉献式でのカウリー十二使徒の預言が成就している事の証であります。
 戦後東京麻布の有栖川家御用邸の前に戦争で半壊した建物を見つけ、その建物の外観はしっかりと残っており中は爆弾でなくなっていたその建物が気になってそこを購入したクリソード伝道部長にも主の御霊が大いに注がれていたことを明確に知ることができます。伝道本部として奉献されたその場所に、将来東京神殿が建てられることになるとは、当時は誰も考えてもみなかったことでしょう。クリソード伝道部長は、戦争で散在になっている教会員の消息をまず第一に探し出す事でしたでしょう。そして日本の聖徒たちに伝道の再開を宣言することであり、次に伝道の拠点となる伝道本部を建設し、日本全土に宣教師を派遣し、伝道所や支部を作らなければ成らない状態で、しかも戦争で焼け野原となっていた東京の中でのこの出来事があったのであります。もちろん日本全国が戦争の被害をこっぴどく受けておりましたので、地方でも、いまだ満足のいく教会堂は一つとしてなかったのであります。そして戦後17年経った時、この建築宣教師制度により、建築宣教師や聖徒達の手によって教会堂が建設され始めました。現在日本各地に素晴らしい教会堂が建設されています。が、そのうち25の教会堂は建築宣教師制度によるものであります。その後は建築業者によって建設されました。これからもまだまだ多くの教会堂が、マシュー・カウリー十二使徒の預言の進行の中で、どのように成就されて行くのか、楽しみですが、この建築宣教師制度による教会堂建築に身を持って経験して来た建築宣教師達の働きを、「建築宣教師の足跡」として知ることが出来る事実をここに記録するのであります。
参考資料:https://ja.wikipedia.org/wiki/1901年〜1924年の政治
     https://ja.wikipedia.org/wiki/1901年〜1924年
     https://history.lds.org/missionary/mission/japan?lang=eng
     https://scholarsarchive.byu.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=5980&context=etd
     http://lifey.org/japan-lds-missions/
     https://www.morumon.org/japanchurchhistorymissionslist.htm

  • 大きな歴史のうねりの中で翻弄された先人たちの屍を越えて生きる「今の時代の私たちの責任は何か」を考えさせられました。平和の旗を掲げて(D&C105:39)地のすべての国民を招いている主の王国の一人であることを感謝します。

    以下ご参考までに。
    1995年のヴェノナ文書公開以前から「フランクリン・ルーズベルトが太平洋戦争を起こした」という「米国責任論」はアメリカ国内の保守層にあったが「Remember Pearl Harbor!」
    と今も言われるように真珠湾攻撃を「日本のだまし討ち」と左派が唱えて敵愾心を煽ってきた。ルーズベルトは政権内にいた300人ものソ連のスパイとソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの謀略にはまった、という説もある。
    1939年にハーバート・フーバー元大統領はルーズベルトに選挙で敗れたが、歴史的な回顧録を残している。その中で、アメリカ大西洋艦隊、および太平洋艦隊を事前に真珠湾に集め、事前に軍隊の中で日本語学校を作って日本語教育を初めた。(筆者はその生徒であり東京裁判で英語通訳の責任者をした日本人の記録を読んだ)また、ルーズベルトはパールハーバーに日本軍がくることを暗号解析で知りながら、現地の司令官に通知せず自国の海軍兵士を多数犠牲にした。さらには戦争開始直後12万人の米国西海岸の日系人を強制収容所にいれて、彼らの資産や職業を略奪した。他多くあり書ききれない。(「アメリカに正義はあるのか」米良浩一著、「太平洋戦争の大嘘」藤井厳喜著、「天皇を救った男」スティーブ・鮫島著 他)
    -- 岸野みさを 2018-06-24 (日) 22:32:29
  •  有名なお話ですね。ルーズベルトが大統領になる時に戦争をしない事を公約に掲げて大統領になったので、自らは戦争をする事に躊躇されていたのですが、敵が最初に攻めてくればそれに対する応戦は当然の行為とするために、日本はすっかりはめられてしまったという事が、ルーズベルトの娘さんか誰かに話していたという事が明らかになったという話を聞いた事もあります。それにしても馬鹿げた考えですね。アメリカは日本が戦争するようにすべての面で仕掛けていったのでしょうね。その結果双方に多くの罪のない人々が死んでゆき、原爆さえも落とされたのですから。どんな意味があったというのでしょうか。実に馬鹿げた事です。 -- 工藤駿一 2018-10-25 (木) 22:15:11

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