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2020.07.15 旅行記・紀行文「稲沢市立明治中学校未公認自転車部その2「犬山城」」 投稿者:HolynameJC

その2

子供たちは普通、仲間たちの家庭環境などには無頓着に付き合っている。どんな家に住んでいるとか、どんな親なのか、まして親の教育理念はどうかなどは思いもよらないはずだ。そんなことを知らなくても付き合いに何の支障もない。ところが未公認自転車部(と言っても部員は二名だ)が犬山城へのサイクリングを計画しメンバーを募り始めると、知らなくてもいいはずの家庭環境が見え始めてきた。
 まだまだ教育ママの存在は希な時代で、さすがに勉強に差し支えるからなどという理由で反対する親はいなかったが、交通事故に遭遇することを心配して反対する親が意外に多く、当初参加を表明していた仲間たちが親の反対のために次々と脱落していった。
部活の練習が休めないというもっともな理由であきらめる者もいた。部活と言えば、ビリも私も軟式野球部の部員で、私について言えば夏の大会が終わり、三年生が引退した後はライトのポジションを約束されていたが、日曜日に一日練習を休むからといって、それを思いとどまるよう説得するような部員もおらず、顧問の先生からもクレームはなかった。それくらい緩い部活だったし、当然地元の強豪チームというわけでもなかった。ただし顧問の先生はさすがに立場上、サイクリングは危険だから考え直せとは言っていた。彼は部活の顧問であると同時に担任でもあった。義務教育の九年間の中で私と最も波長があった先生で、子供の心がよくわかる人だった。学校側に知れると絶対にストップがかかるから、あまり騒々しく動くなとアドバイスしてくれたが、私には脱落した仲間からも絶対に漏れることはないという自信があった。
 ビリの両親も私の母も、この計画に反対しなかった。ずいぶん大きくなってから、その話を一番上の姉にした時、「それはお母ちゃんが愛の薄い人だからよ。」と言われてしまった。当時姉の長男が中学に通っていて、この稿の私と同じ年頃だったのだが、姉は母親として心配で、とても許可することはできないとも言っていた。
 母が薄情な人間だなどとは、私は思ったことも感じたこともないが、他の仲間のように反対されなかったことについては、私なりの思いがあった。元来、放任主義者である母は、その拠り所としてわが子を信頼し、子供の自由を認めてくれていたと、私は今も信じている。そして何よりも母はとびきりの楽天家だった。
 と言った事情で、結局犬山城を目指すサイクリングに参加したメンバーは、ビリと私の二人だけだった。夏休みが始まったばかりのある晴れた日、サイクリングは決行された。朝早く出発するということで、前日の夜にビリはわが家に泊まることになった。これが慣例になって、その後、私たちは四度サイクリングを実行したが、毎回わが家が出発地となった。
 出発の朝は、私の心にそれまでに感じたことのない厳粛なものとなった。ようやく夜が明けかかった淡い闇の中を、ビリと私は母に見送られて非日常の世界へ旅立った。大袈裟な表現のように思えるが、当時の気持ちはまさにその通りだった。サイクリングもマラソンと同じで、毎回、ある時点に達する頃になると、自分は今なぜこんなことをしているのだろうとか、なぜ今この道を走っているのだろうと考える。別に深く考えるわけではないので、行き着く答えは平凡だ。そこに自分にとって未知の道があるから。目的地がどのような所かを知るわけでもなく、行って何をするというプランも持っていない。ただ一心に目的地を目指し、通り過ぎる町や田舎の風景を楽しみながら風を切って走る。「風を切って走る」というのが、サイクリングの一番の楽しみかも知れない。
 犬山城までの道のりは今はもう霧の向こうで、はっきりと覚えてはいない。ただ一つ、小牧山の麓を走ったことだけは鮮明に覚えている。その理由はまず真っ平らな平野の真ん中に不自然に盛り上がった地形が異様であったことだ。古代の歴史に関心のあった私はビリに、「これは古墳かも知れない。」と叫んだが、「バーカ。」という返事が瞬時に返ってきた。ビリは以前に名古屋市内にある二子山古墳というのを見に行ったことがあるらしく、それと比較して、こんな大きな古墳が当時の人間に造れるはずがないと言うのだ。何も知らない私はエジプトのピラミッドを引き合いに出して、ピラミッドに較べれば小さなもんだよ、などと答えてビリを黙らせたが、今調べてみると、小牧山はピラミッドが四つすっぽり入ってしまうほどの大きさがあることがわかった。もちろん、ビリは今なおその事実に気づいていないだろう。
 もう一つ印象的だったのは、山頂に足場が組まれていて、お城を建設中だったことだ。これも今調べると、お城が完成したのは1968年のことで、私たちが麓を走り去った翌年のことらしい。今でもそうだが、この山の頂上からは稲葉山(現在の金華山)が一望できて、織田信長はここから西の空を見下ろしながら、美濃征服をもくろみ、その足がかりとして小牧山に城を築き、やがて美濃を攻め落として、今度は稲葉山の山頂に岐阜城を建てた。小牧山城はたった四年で廃城になったとされている。
 先に「非日常」という言葉を使ったが、犬山城の往復はまさにその言葉通りで、往路ですでに私の肉体は悲鳴を上げ、太股はこれ以上走れば筋が切れそうな予感をもたらし、肺は今にもパンクしそうで、息は完全に上がっていた。ビリはと言えば、どうやら私に内緒でこっそり訓練を重ねていたようで、まったく平然としてペダルに載せた足を軽やかに回転させていた。
その時二人は小さな川の堤防沿いを走っていて、道の両脇には桜の並木が続いていた。春にはさぞ美しい桜のトンネルができるのだろうなどという思いはまったく浮かばず、とうとう肉体の限界に達して「ビリ、少し休もう。」と助けを求めようとした時、トンネルを作っている桜の梢の向こうに白亜のお城の屋根がかすんで見えた。
「もう一息だ。」とビリが言った。私は無言で頷いた。夢の実現がすぐそこにあるという思いが頭を占領していた。
これは労働に対する正当な報酬だ。もちろんお金などではなく、己への自信にもつながる目的達成の喜びだった。犬山城の石垣に全体重をかけてもたれながら、生まれてこのかた体を使ってこんなに頑張ったことはなかったなと、自分に語りかけていた。しばらくの間、お城の屋根瓦越しに青く透明に澄んだ空を眺めていたが、今思えば天上のどこかに神様がいて、二人を見守り応援しておられたかも知れない。きっとそうだったのだろうが、当時の私はそんなことを心の片隅に思い浮かべる素養も持ってはいなかった。
とにかく、サイクリングの遠乗りが自分に可能であることがわかり、ビジョンはさらに広がった。この年の秋、二人は養老の滝を往復し、三年生に上がる直前の春休みには伊勢神宮を目指して二泊三日の旅に出発した。

  • 風を切って走るサイクリングの旅は今も宝石のように輝いているのですね。文章もスイスイ読ませるスピード感があって、無事目的地に到着できてホッとしました。次の伊勢神宮
    を楽しみにしています。 -- 岸野みさを2020-07-17 (金) 19:43:31

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