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2020.09.02 旅行記・紀行文「稲沢市立明治中学校未公認自転車部 その6  紀伊半島一周卒業旅行」 投稿者:HolynameJC

 未公認自転車部が企画したサイクリングによる卒業旅行は結果的には大きな失敗に終わった。NASA(アメリカ航空宇宙局)のアポロ計画にたとえれば、計画のフィナーレである月面着陸の段階になって、全く未経験の部外者を宇宙船に乗せるようなものだった。
 自転車部発足に先だって参加を呼びかけたときに、いろいろな理由で断ってきた同級生たちがこの期におよんで突然、加入を申し込んできたのだ。そのほとんどが高校受験が終わった後であったことを思うと、やはり親の反対理由は勉強がおろそかになるということだったのかもしれない。
 最終的に四人が新たに加わることになった。四人とも仲の良い友人で人間関係には何の問題も無かったが、私の心はなぜかすっきりしなかった。最後の計画は紀伊半島一周七日間の旅だ。自分をサイクリングの伝道師と自負しているビリは、にぎやかになっていいじゃないかと言ったが、これまでまったく経験のない彼らがいきなりそんな大計画に参加して、はたして完走することができるだろうか。また合計七名の大所帯ではいま持っているテントでは間に合わないし、食事の準備も大変に思われた。
 しかし、ことは決定し慌ただしい準備が始まった。この準備の中で、一つだけ胸の高鳴る出来事があった。卒業後のある日、ビリと私は一宮のあるデパートにサイクリングの買い出しに来ていたのだが、買い物を終えて下りかけた階段の踊り場で、片思いの女子に出会ってしまったのだ。彼女にも連れがいて、その友人は看護学校への進学が決まっていて、後に山下病院で看護士として働くことになるのだが、私は二人がそんなに仲良しであったことを初めて知って、二重の驚きだった。
 ビリは私以上に女子が苦手だったので、気づかぬ振りをして階段を下りて行ってしまったが(本当に気づいていなかったのかもしれない)、私は目が合ってしまったためにさすがに走り抜ける勇気はなく、あるいは何かを期待したのか歩度をゆるめ、踊り場のベンチに座っている二人に近づいた。
 二人は驚いた様子でお互いの顔を見合わせたが、看護士志望の女子が気を利かせて席を立とうとはしなかったこともあって、私はなんと言えばいいのかわからなかった。
 しばらく青春ドラマのような沈黙があったが、これ以上の沈黙は気まずい結果になると思ったとき、「また、サイクリングに行くの?」と彼女が囁くように言った。それは中学の三年間、同じクラスにいながら、初めて彼女から語りかけられた至福の瞬間だった。  
 私は胸をドキドキさせながらも必死に返す言葉を探し、「うん、どこかから手紙を出すよ」とそれだけを言い残してビリの後を追った。まったく間の抜けた返事だったが、それが人生での彼女との最後の出会いとなった。
 私はそれが最後とはわかるはずもなく、彼女との約束を守り、サイクリング四日目の夜に宿でハガキを書いて、翌朝投函した。その日は(というか、卒業旅行は日程の大半が雨に降られたのだが)一日中雨の中を走り続け、夕方にはその日の目標だった和歌山県の最南端にある串本に到着し、国鉄(まだJRにはなっていなかった)串本駅の近くにあった小さな旅館にずぶ濡れの状態で飛び込んだ。宿賃がいくらだったかは覚えていないが、子供でも泊まれる程度の安さだったことは間違いない。二段ベッドがいくつか備えられていたことから察すると、ひょっとすると巨大プロジェクトの建設現場か何かが近くにあって、その現場作業者たちの宿にでもなっていたのかもしれない。とにかくその夜、受付でハガキを一枚譲ってもらって、これまでの旅の様子を書いて、彼女に送った。

 その旅は経験不足の新人の四人には散々な思い出になっただろうが、私には結構楽しい経験だった。
 最初の二日間はわりと天気は良い方だった。三日目から雨が降り始め、その後旅が終わるまで、太陽はまったく顔を出さなかった。そして雨は三日間降り続いた。降り始めたのは志摩半島を抜けて尾鷲方面に向かう途中で、今思えば、その辺りは一年を通して降水量の多い地域で、運が悪かったというわけではないのだが、そういう知識が無く、現実にいつまでも、それもかなり強烈な雨に打たれ続けていると、さすがに気が重くなり、自然とペダルを踏む足も重くなって、山道も多くて疲れがたまり、自転車を押して歩くこともしばしばだったので、仲間の中には脱落寸前の者も現れた。もちろん誰もがプライドがあるし、見栄もあるのでそんな泣き言は一人も口にしなかったが、その分、リーダーのビリの決断が求められた。
 しかし、ビリはあきらめることはまったく考えていなかった。放って置いても遭難するわけではないので、その辺はさっぱりしていて、少しでも多くペダルを踏むことだけを全員に訴えた。
 言い忘れたが、メンバーが増えた時点で計画を修正し、今回は寝袋以外はテントも食材もいっさい持っていかなかった。その分費用がかさむことになるのだが、ただ走り抜くことだけに労力を絞ることが目標達成につながると判断したからだ。
 そんなわけで三日目の夜は熊野の山中で道沿いにあったお寺の門を叩き、ご住職にお願いして本堂の畳の上で寝かせてもらった。全身ずぶ濡れだったはずで、お風呂に入れてもらったり、服を乾かしてもらったり、もちろん夕食も朝食もお世話になったはずなのだが、そんな記憶はまったく飛んでしまっている。ただ、本堂に安置されているご本尊が一晩中照明に照らされて輝いていたのと、夜中にトイレに行きたくなって廊下に出たとき、目と鼻の先が墓地になっていて、見てはいけないものを見てしまったような、おぞましい恐怖に襲われて、最悪の状況を想像しながら用をすませたことだけははっきりと覚えている。
 その他のことは、残念ながら思い出せずにいる。串本で迎えた朝は、宿を出た足で潮岬を回り、雨の中、波立つ海面を風に震えながらしばらく眺めていた。それが今回の目標の一つだったからだ。その後はただ濡れた路面がときにアスファルトになったり、ときに砂利道になったりしながら後ろに飛んでいく様子だけが記憶の中心になっている。いったいどこで何を食べ、どこで夜を過ごしたのだろう。
 ただし、旅の途中で重大な決断をしたことは覚えている。雨が続いたことと坂道が多かったことが一番の理由なのだが、日程がどんどん遅れ、予定最終日の七日目を迎えても、私たちはまだ和歌山県内から出ることができずにいた。その日の昼頃、私たちは紀伊田辺という小さな町に到着したが、それは全旅程のちょうど半分ほどの地点だった。予定ではこの後、大阪に入り、京都、滋賀を通って琵琶湖畔に出て、その後は前回通った道を利用してそれぞれの家に帰ることになっていた。
 旅の予定を7日間にしたのには理由があった。帰還予定日の翌々日にメンバーの何人かが新しい教科書を受け取るためにそれぞれの高校に行かなくてはならなかったのだ。私もその一人だった。そういうわけで現状ではもはや目標達成は困難なことは明らかだったので、とうとうビリは紀伊田辺でサイクリングの中止を決定し、列車に乗って帰る決心をした。
 しかし皆がもはや旅費を使い果たしていたので、切符を買うことができない状態だった。
 そこで私が決心して駅員さんに事情を話し、アドバイスを求めることになった。姉たちから国鉄(現在のJR)の職員は態度が大きくて威張っていると聞いたことがあるので、私は少し気が重かったのだが、運が良かったのか紀伊田辺駅の駅員さんはやさしい人で、所持金で買える一番遠い駅までの切符を買って列車に乗り、後は降りる駅で精算すればよいと教えてくれた。
 私たちは自転車を荷物として送る手続きをし、飲食代だけを残した残金で切符を購入して、列車の人となった。乗った列車の記憶も曖昧だが、おそらく阪和線で大阪に出て東海道線に乗り換え、尾張一宮駅で下りたのだと思う。駅のホームに下りたとき、これまでのような達成感は全くなく、私自身は敗北者の気分だった。駅の構内でしばらく待っていると連絡を受けた仲間の一人の父親が来てくれて、全員の料金を精算してくれた。当然、後で返すつもりだったが、その父親はどういう思いだったのか、お金は返す必要がないからと言って、乗れるだけのメンバーを乗せて去って行った。ビリも車に乗って去り、それ以後、今に至るまで彼とは再会していない。
 私はその父親に恵んでもらったお金で切符を買い、一人で名鉄線で国府宮駅まで来て、バスに乗り換え、見慣れた景色のバス停で下りた。そこから家まではわずか一分ほどだったが、重々しい足取りで、玄関の扉を開けたときは、心も体もボロ切れのようになっていた。先に光がなかった。明日が来ることはわかっていたし、高校生活という新しい人生が待っていることもわかっていたが、想像する未来は平滑なモノトーンの世界だった。
 私は三年間、同じ自転車で高校に通ったが、その間、一度も風になることがなかった。高校を卒業して数ヶ月後に宣教師に出会って改宗してからは、家と職場、そして教会の間を行き来する生活で、自転車に乗ることはぷっつりと止んでしまい、手入れもしなくなった愛車は、いつの間にか埃と錆と蜘蛛の巣に覆われて過去の遺物のようになってしまった。

 その後、再び自転車に乗ったのは、遠く北海道札幌でのことだった。二十二才の夏、私は末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として札幌に赴任した。まだ宣教師訓練センター(MTC)も東京神殿もない時代で、召された翌日に中央区にある札幌伝道本部に入り、次の日の朝に市内の宣教師アパートに移動して、荷物も解かないままに、初めての同僚と伝道に向かった。
 私の体は完全に鈍っていて、五回のサイクリングの経験は何の意味もなさず、先輩のレモン長老の自転車には小型エンジンが付いているのではないかと思うほど、あっという間に大きく引き離されてしまった。
 その日から二年間、雪の季節をのぞいて、私と自転車との生活が再び始まった。と言っても、自転車は転勤ごとに変わった。当時、札幌伝道部の宣教師はマイ自転車を持っていなかった。自転車はすべて宣教師アパートの所持品になっていて、行く先々で前の宣教師の自転車に乗ることになる。ハンドルはノーマルで、変速ギアの付いていない物もあった。
 ほとんどが年期のはいった自転車で、たびたびパンクし、故障も多かった。もちろん自分で修理するのだが、タイヤをはずすのに手間取ったりすると、突然ビリの顔が脳裏に浮かび、伊勢の山中で出会ったあのかっこいい青年の医者のような手捌きが思い出された。「医者と自転車屋さんは同じようなものなんだよ・・・」と青年は言った。
 イエス様なら「医者も宣教師も同じようなものだよ」と言われるかもしれない。そんな連想ゲームのようなことを何度か一人で楽しんだ。それから四十二年、以来自転車とはまったく無縁な人生を送っている。   完

  • まさか、自転車物語がチャリンコ事情で幕を閉じるとは、意外な展開に、とまどいの念を覚えました(笑)。でもこのことがあの時の冒険と挫折のサイクリング物語が青春グラフィティーとして、老年に差し切ろうとしている著者、そして私たちにとって、眩しく迫ってくるものがあるのかもしれませんね。でもでもこれからのことを思うと今が一番若く可能性があります。またどこかで形が違うかもしれませんが、チャレンジされてもよろしいかと思います。青春万歳ではなく人生万歳です! -- おーちゃん 2020-09-03 (木) 12:26:35
  • 記録だけではなく記憶で書いていることが分かり鮮明な記憶力に驚嘆しました。今まで読み進めてきて、失敗はなかったのだろうかとふと思ったことがありましたが、今回やはり「出た!」となりました。それにしても連日雨でずぶ濡れの自転車旅行など若気の…ということになりそうですが、イヤイヤ親切なお寺さんに出会ったりしてやはり貴重な青春グラフティだったんですね。終わりよければすべてよし!

    -- 岸野 みさを 2020-09-03 (木) 20:15:38
  • 最後までお付き合いありがとうございました。先日、ビリと50年ぶりに電話で話しましたが、彼はもう長く毎年数回行われる自転車のロードレースに参加していて、仲間たちが忘れてしまった夢を、今も一人追い続けていると知りました。近く会って時を探す約束をしています。 -- 山田憲彦 2020-09-03 (木) 21:31:50
  • やはりビリはビリだったわけですね。ビバ再会!
    私の妹の息子も長野県のロードレースで優勝を果たし、今年私たちが白馬村に戻ったときに6年生の孫にマウンテングサイクリングを教えてくれるはずが朝の雲行きをみて、「これは雨か雷がくる」で中止になりました。外に出てみると霧雨が降ってきたので現地の人の天気予報は的中すると感心したものです。孫はぶっくれてイワナのつかみ取りに行き、取ったイワナを焼いて食ったそうです。
    山田さまがどなたなのか沼野次郎兄弟の「日本末日聖徒人物誌」で分かりました。
    次回のご投稿を楽しみにお待ちしております。 -- 岸野 みさを 2020-09-03 (木) 22:53:40
  • 自転車旅行のお話一気に読みました。本当に充実した青春を自ら演出して、本当に感動でした。伝道経験に次ぐ素晴らしい経験です。あなたのお母さんの大きな愛に比べ、私の愛も違った形で善しなのだと思いました。 -- 徳沢 愛子 2020-09-09 (水) 20:39:27

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