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22081402 岸野  みさを

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2022.08.14 自分史・家族史「2022年終戦記念日―戦前生まれの歴史認識(4)」 投稿者:岸野  みさを

 求道者の頃一回だけ教会が行っている英会話に出席した。私よりも3歳くらい若い長老がクラスが始まるや否や「東条英機をどう思いますか?」と質問してきた。その場にいた生徒たちの誰一人としてその名を知らない者はいなかった筈なのに、誰も回答する者がいない。英語だから答えられないのではなく、答えを持っていないと
いう雰囲気だった。同時に宣教師たちは日本の歴史について十分学んでいるのだと痛感したことを覚えている。シーンとしてしまったので長老は話題を変えたのだった。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
★東条英機
生年月日 1884年12月30日[注釈 1]
出生地 日本 東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)
没年月日 1948年12月23日(63歳没)
死没地 日本 東京都豊島区・巣鴨拘置所
出身校 陸軍士官学校(第17期)
陸軍大学校(第27期)
前職 関東軍参謀長
所属政党 大政翼賛会(1941年 - 1944年)[注釈 2]
称号 帝國陸軍の階級―襟章―大将.svg 陸軍大将
従二位
勲一等旭日大綬章
功二級金鵄勲章
ドイツ鷲勲章
聖マウリッツィオ・ラザロ勲章
チュラチョームクラーオ勲章
配偶者 東條かつ子
子女 東條英隆(長男)
東條輝雄(次男)
東條敏夫(三男)
杉山光枝(長女)
東條満喜枝(次女)
鷹森幸枝(三女)
キミエ・ギルバートソン(四女)
親族 東條英俊(祖父)。
現在の百科事典や文科省検定教科書等では新字体で東条 英機と表記されることが多い[注釈 3]。

東條英教(陸軍中将)は父。東條かつ子は妻。東條輝雄(三菱自動車工業 社長・会長)・東條敏夫(空将補)は子。

陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣、参謀総長、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任した。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑された。

永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東條内閣、在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。在任中に太平洋戦争(昭和16年12月 - )が開戦した。

権力強化を志向し複数の大臣を兼任、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任した。

日本降伏後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。

その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴された。1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。
 

ウイキペディアでは東条英機についてA417枚に及ぶ長さであり、筆者ごときにまとめられるものではないが以下を抜粋して紹介したい。

★「太平洋戦争」と「大東亜戦争」呼称[編集]
「大東亜戦争」も参照
ウィキソースにWikisource:大東亜戦争の呼称に関する公文書の原文があります。

日本では1925年(大正14年)の日米未来戦記などで「太平洋戦争」が使用された[7]が、1941年の開戦直後に「大東亜戦争」が閣議決定された[8](「亜」は「亜細亜」すなわちアジアの略語)。「アジアの欧米植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という理念を掲げた。植民地宗主国を中心に構成された連
合国側にとっては都合が悪かったため、[要出典]戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた[9][7]。
GHQはプレス・コードなど[10]で「大東亜戦争」の使用を新聞で避けるように指令し[11]、1945年12月8日(開戦4周年)以降、新聞各紙でGHQ民間情報教育局作成の『太平洋戰爭史-真実なき軍国日本の崩壊』の掲載を開始。この満州事変から太平洋戦争までを連続させ日本の侵略と残虐行為を詳細に叙述した戦史の単行本10万部は完売
、GHQ指導で学校教育でも奨励され、定着した[11]。12月15日の神道指令[12]では軍国主義・国家主義を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を公文書において禁止した[13](のち失効[7][14])。
翌1946年、法律や勅令の文言は「今次ノ戦争」と改められた[15]。1960年頃から一種のタブー扱いとされ「大東亜戦争」はメディアでの使用は控えられており、日本政府はGHQの政策以降、現在まで公的には「今次戦争」「先の大戦」「第二次世界大戦」などを用いている[13]。ただし2006年 - 2007年(平成18年度)の政府見解では「
大東亜戦争」「太平洋戦争」の定義を定める法令はないとされた[16][17]。

★東京裁判

極東裁判にて、被告台に立つ東條

画像の説明(写真1 )

1947年に撮影された東條。ワイシャツにネクタイを締め、その上に国民服の甲号上衣を着用した姿。

画像の説明(写真2)

出廷時には、他の被告が白シャツを着る中、佐藤賢了とともに軍服を着用(少なくとも1947年8月まで)し、メモを取り続けた[69]。

東條の国家弁護
「戦争は裕仁天皇の意思であったか?」の尋問に対し

「ご意思に反したかも知れぬが、わが内閣及び軍統帥部の進言により、渋々同意なさったのが本当であろう。そのご意思は開戦の詔勅の『止ムヲ得サル事朕カ志シナラス』のお言葉で明白である。これは陛下の特別な思し召しで、我が内閣の責任に於いて入れた言葉である。陛下は最期の一瞬まで、和平を望んでおられた。この戦争の
責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言う
ほかはない」
とアメリカの戦争犯罪を糾弾した。

東條は東京裁判を通して自己弁護は行わず、この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言している[70]。東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した[71]。
東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどして、キーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統
帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と明確に証言し、この証言が天皇の免訴を最終的に確定することになった。

日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする[72]。

秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[73]。

判決
「A級戦犯」および「BC級戦犯」も参照
極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、11月12日に終了した。7人が死刑(絞首刑)、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。東條は平和に対する罪で死刑(絞首刑)の判決を受けた。この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死
刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある[74]。

なお、東條は、東京裁判の判決について、「この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と遺書に書いている[75]。

★遺言状
逮捕前に書かれたとされるもの
以下は1945年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされるもの、《英米諸国人ニ告グ》、《日本同胞国民諸君》、《日本青年諸君ニ告グ》の3通を現代語にしたものである。

★《英米諸国人に告げる》
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察
するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あま
りにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

★《日本同胞国民諸君》
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我
が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見てお
られるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

★《日本青年諸君に告げる。》
《日本青年諸君各位》
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、
もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。

★のちに東條についての著書を著したロバート・ビュートーは、東條を逮捕するために訪れたMP一行のひとり、ウィルパーズ中尉が東條自決直後に東條の机にあった文書と前日の1945年9月10日付の「最後声明」を押収したが、GHQによる英訳があるものの、日本語の現物は行方不明だとしている[1]。
東京裁判で東條の弁護人を務めた清瀬一郎は、《英米諸国人ニ告グ》、《日本同胞国民諸君》、《日本青年諸君ニ告グ》がロバート・ビュートーが言及した「最後の声明」に当たり、信用すべき人から、文意は東條のもの、文飾は「当時日本言論文筆および史学界の最長老某氏の添削を経たもの」との証言を得たとしている[2]。
この遺書は1952年(昭和27年)の『中央公論』5月号にUP通信のE・ホーブライト記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた(戒能の評は同誌に遺書と同時に掲載された)

保阪正康は、『東條英機と天皇の時代』(初版1979年)では、徳富蘇峰の添削を経た東條の遺書としている[3]。しかし保阪はのちの著書『昭和良識派の研究』では、東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がま
た戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている[4]。徳富は9月に東条から遺言書作成の依頼があったと書いている。[5]

★辞世の句
4首あり下記の2首を筆者は好む。

我ゆくも またこの土地にかえり来ん 国に酬ゆることの足らねば

今ははや こころにかかる雲もなし 心豊かなに西へぞ急ぐ

また防衛研究所図書館所蔵の「東条英機辞世の句」は昭和23年1月から4月ころにかけて巣鴨プリズンで記した作品で奥様のかつ子夫人を経て佐藤賢了中将へ渡ったものとされる。

寒梅を 一枝たむく 靖国社
夏冬に 色は変われど 富士は富士
悪夢かや 代々木の春の 星条旗
東西に 変わらぬ薫り 人の情


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